東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の全貌!宮崎勤や家族のその後も

当時の日本を震撼させた前代未聞の有名誘拐殺人事件「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」とは。その犯人である宮崎勤とは一体どういった人間だったのか。宮崎勤の生い立ちから事件発生に至るまでの犯行動機や更には事件後の家族のその後についてまでを詳しく記事にしました。

東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の全貌!宮崎勤や家族のその後ものイメージ

目次

  1. 1「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の概要
  2. 2「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第一の事件
  3. 3「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第二の事件
  4. 4「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第三の事件
  5. 5「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第四の事件
  6. 6「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」はどのように収束したのか
  7. 7「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」犯人の生い立ちや人物像
  8. 8「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の犯人の動機は?
  9. 9「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」犯人の家族の悲惨な末路とは
  10. 10「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」には5人目の被害者がいた?
  11. 1120世紀最大の凶悪事件を忘れないように

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の概要

※この記事は猟奇的な内容が含まれますので、閲覧にご注意ください。

日本の有名な誘拐犯罪事件名として東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件を知らない人はいないのではないでしょうか?この事件は1988年(昭和63年)から翌年の1989年(平成元年)にかけて発生しました。4歳から7歳という低年齢女子、所謂「幼女」を対象とした異常な連続誘拐事件として当時の日本を震撼させました。

被害者となった幼女は4名にもなり、その全員が死亡したなんとも痛ましい事件です。この事件は犯行の異常性もさることながらそれ以上に犯人から犯行声明が新聞社に送り付けられてきた事で事件発生当初からあらゆるメディアで激しい報道が行われました。その結果、事件は連日トップニュースとなり有名事件となりました。

またこの事件は残酷極まりない事件であったため犯人逮捕後、犯人の父親にも非難が集まってしまいました。その結果犯人の父親が自殺してしまいその事が余計にこの事件を有名にしてしまいました。この事件の後にメディア報道の在り方を疑問視されるようにもなりました。

骸骨

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第一の事件

1988年8月22日、当時4歳の幼女A(仮)が誘拐・殺害されました。事件は殺害だけにとどまらず被害者の死亡後、宮崎勤は死後硬直で固くなった無残な姿をした被害者に対してわいせつ行為を行いその様子を動画で撮影するといった異常行動を行いました。

少女

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第二の事件

同年10月3日当時7歳の幼女B(仮)が誘拐・殺害されました。被害者Aの時と違ってBの際はすぐさまわいせつ行為をしましたが、この時点ではまだ被害者はまだ息があり「(Bの)足がピクピク動いていた」という宮崎の証言があります。

ナイフ

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第三の事件

同年12月9日、第一の事件と同年代の当時4歳の幼女Cが誘拐・殺人されました。被害者は恐怖からか失禁をしていました。それに焦ったのか宮崎勤は被害者の遺体を山林に捨てるという異常行動をしました。

その後被害者の遺体は12月15日に発見されました。被害者の遺体発見後、遺族の父親が「死んでいても見つかってよかった」と発言したのを見た宮崎勤は他の被害者の遺体も送る計画をしましたがBの遺体が発見できませんでした。

犯人

第四の事件を起こす前の、翌年の1989年2月6日に被害者Aの自宅に紙とAの遺骨の入った段ボールが置かれました。2月10日には【今田 勇子】名義でAの事件に関する【犯行声明】が朝日新聞東京本社に輸送されました。その翌日2月11日には同内容の【犯行声明】がAの自宅にも届きました。告白文は実際の事件事実とは異なる経緯が書かれていました。

手紙

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」第四の事件

1989年6月6日、同時5歳の被害者幼女Dが誘拐・殺人されました。被害者Dはバラバラ遺体となって6月11日に発見されました。後の罪状否認でDの両手を焼いて食べたと宮崎勤は述べましたが、検察は自身の異常性を強調するために嘘の供述を述べたと主張しました。

手

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」はどのように収束したのか

事件は1989年7月23日に東京の八王子市美山町で別件のわいせつ事件を起こしていると宮崎勤(後の東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人)が被害者の父親に通報され八王子警察署に現行犯逮捕された事がきっかけで本件(東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件)犯人逮捕にもつながりました。

別件事件(わいせつ事件)の取り調べが行われる中で、8月9日に連続幼女誘拐殺人事件への関与を宮崎勤が認め供述を始めました。供述通り8月10日に遺体が発見され、その日の夕方からテレビと新聞紙で大々的に犯人である宮崎勤の名前の実名報道がはじまりました。その後宮崎勤は8月11日に誘拐と殺人容疑で再逮捕されました。

※再逮捕とは既に逮捕され勾留状態にある人を釈放直後又は勾留期間中に再び逮捕する事です。刑事事件では捜査できる期間が定められています。勾留の最大期間は20日間です。勾留後3日間の間に取り調べを行い、裁判所にいる当番弁護士が「やむを得ない事由がある」と判断すると検察官の請求により追加で10日間を限度に勾留期間延長ができます。

これを勾留延長といい、この勾留延長が最大20日間となっています。勾留延長された場合には容疑者に弁護士がついている場合、この弁護士から勾留差し止め請求をしてもらう事によって(準抗告)釈放ができる場合もあります。刑事は勾留期間中に容疑者を起訴するか不起訴にするか決めなくてはいけません。基礎された場合勾留最大期間は二か月に伸びます。

牢屋

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」犯人の生い立ちや人物像

宮崎勤は裕福な家庭に生まれました。小さい頃の宮崎勤の面倒を見たのは主に彼の祖父とベビーシッターの男性でした。そのため両親との時間があまりもてませんでした。こうして生い立ちを見てみると家族に愛されず、裕福ではあったけれど寂しい幼少時代を過ごしたと見受けられます。

子供

宮崎勤の家族のうち彼の祖母はかなり厳しい人で宮崎勤の母親は祖母に遠慮し、妊娠中に充分な栄養を摂れませんでした。母親は臨月になっても畑仕事をし三世帯同居だったため、夜よく眠れず睡眠薬を服用していました。更に頭痛持ちのため頭痛薬も服用していました。そのためか、彼は未熟児で生まれました。

彼は生まれつき手首を回すことが難しく手のひらを上に向けられない「両側先天性橈尺骨癒合症」という障害を持って生まれました。

当時この障害は珍しかったので幼稚園でいじめられ、幼稚園の先生はいじめを見て見ぬ振りをしたそうです。このため彼は辛い思いをしました。

いじめ

家族の中でも母親は宮崎勤のことを「勤ちゃん」と呼び可愛がっていたそうですが、厳しい姑の育児方針がかなりネックとなり、母親とのスキンシップを制限されていました。

姑は子供と母親がベタベタする事をよく思ってなく、「ベタベタするとろくな人間にならない」と言っていました。そのため、母親が宮崎勤を抱っこするのは日が暮れてからだったそうです。また、障害の事もあり、両親は宮崎勤があまり人の目につかないようにしていました。

家族の中で宮崎勤がよく話をしたのは母親でした。宮崎勤は父親がやってきた瞬間、自室に帰るほど他の家族には心を許していませんでした。この辺から「引きこもり」の性質が出来上がったのではないでしょうか。

小学生の頃の宮崎勤は成績優秀で得意科目は算数でした。
怪物が好きで詳しかったので周りからは「怪物博士」と呼ばれていました。ただ、人気者として慕われていたというわけではありませんでした。
 

学校

宮崎勤は中学へ進学後も変わらず成績は上位で数学と英語が得意科目でした。母親も「うちの息子は英語が得意だ」と周りに自慢していたほどでした。このころ昔からの負けず嫌いの性格は勝ち負けに執着し過ぎるほどになっていました。

宮崎勤は頭脳だけでなく運動も得意で、中でも陸上が得意で空手の型を同級生に披露していたそうです。
 

中学校

しかし、宮崎勤にとって手の障害は相当なコンプレックスでした。手の障害を気にした宮崎勤はわざと片道2時間もかかる遠い高校へと進学しました。コンプレックスの障害については両親もひた隠しにし続けていました。両親は宮崎勤がどうして遠い高校へ進学したか深く考えず「教員になるために有利な高校を選んだ」と思い込んでいたそうです。

幼稚園の頃からバカにされていじめられてきて、幼稚園の先生からも助けてもらえなかった・・・この時点で相当なストレスだった思います。幼くてもその心に受けた傷は大きかったと思います。障害があるというだけで周りからのけ者にされ、迫害された記憶は大きくなってからも心を蝕んだでしょうし、大きな悩みになっていたと思います。この点では私は彼に同情します。

人と違うだけでここまでいじめられないといけない必要はなかったと思います。また、彼の家族も障害を理由に人目につかないようにしたりとその対応を間違えてしまった気がします。もう少し理解のある人が近くにいれば彼も後々の犯罪へと続くような事もなかったのではないでしょうか。やってしまった犯罪については同情はできませんが、その生い立ちは同情できる部分が多くあります。

幼少時代から母親以外の家族に恵まれず、周りからはいじめられ、障害を両親からも隠され、本来ほかの人が得られた物を得られず、一人ぼっちでさみしく過ごしてきたのではないでしょうか。

犯罪行為を責めるのは簡単ですし、彼だけを責めるのは簡単なことです。ですが深く生い立ちを見ていけば犯罪動機になるような家族や育った環境の悪さが目立ちます。宮崎勤に対して理解を示さなかった家族に非はなかったのでしょうか。

高校

高校後、宮崎勤は東京工芸大学短期大学部家族技術科に進学しました。大学卒業後叔父の紹介で印刷会社に就職するも勤務態度が悪いことなどから会社からの評価が低く、ついには首になってしまいます。

幼少期は厳しい姑のせいで家族との時間があまり持てず、いじめられてきた事も併せて考えると親戚の紹介で就職した会社を首になるなんて・・・。障害を隠す両親ですから宮崎勤の家での居心地は更に悪くなったと思われます。
 

家族

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」の犯人の動機は?

事件の異常性や動機についてメディアで様々な憶測が飛び交いました。また、宮崎勤自身が取り調べで要領を得ない発言を繰り返した事もあって裁判でも完璧な動機はわかりませんでした。わからないが故に現在もインターネットなどで犯行動機について考察したサイトをよくみかけます。

すべての事件において幼女を対象とした点に宮崎勤の異常性が表れており、犯行声明と告白文を新聞社に送ったり・被害者の遺骨を遺族に送り付けたりするなど極めて異常な行動を犯人がとった事や動機の不鮮明さから欧米などの児童への性的暴行を目的とした誘拐・殺人事件等と比較されプロファイリングの導入が検討されました。

プロファイリング

犯行動機がはっきりしないため沢山の研究家がコメントを発言しました。また、裁判にあたり宮崎勤に精神鑑定も行われました。その結果、宮崎勤の生い立ちが動機に影響したのではないかという結論が出ました。

幼少期の宮崎勤の生い立ちは孤独なものであったとされ、その孤独な生い立ち故に彼は精神が子供のまま成長してしまい、子供のような性格と性的嗜好を持ってしまったのではないかと言われています。

子供

裁判で行われた簡易精神鑑定では宮崎勤は彼はペドフィリアと呼ばれる幼児性愛者ではなく、あくまで大人の女性の代用として小さな子供を狙ったのではないかと判断されました。

幼児を対象としていますが本質的な性倒錯はなく、少児性愛や死体性愛などの傾向はないとされました。

研究

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」犯人の家族の悲惨な末路とは

宮崎勤が起こした東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件のその後、宮崎勤には死刑が下されました。死刑執行後、彼の母親は遺体の引き取りを依頼された時に「遺体はそちら(東京拘置所)にお任せします」と答えたそうです。実の子でお腹を痛めて生んだにも関わらず他人事のような印象を受けますね。

この事からも宮崎勤の母親や家族との関係の薄さが伺えます。これだけの大きな事件を起こしてしまったので当時の世間の目も冷たかったでしょうがいくら犯罪を起こしたとはいえ我が子が死刑になり、その遺体の引き取りを拒否する辺りが全てを物語るような気がしてなりません。

宮崎勤には父親・母親・二人の妹・父親の弟二人・母親の兄二人がいました。東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件後一族がどうなっていったかについて見ていきましょう。

兄弟

宮崎勤が起こした東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の裁判は精神鑑定も行われ9年間にも及びました。

宮崎勤の父親は、東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の5年後に裁判の判決を見ることもなく死刑執行も知らずに飛び降り自殺をしました。

母親は宮崎勤の死刑執行後、遺体の引き取り拒否をしており、現在人目を忍んで隠れて暮らしていると思われます。

宮崎勤には3歳年下と8歳年下の妹が二人いました。ですが妹二人についてのその後の行方はわかっていません。上の妹は事件後当時勤めていた会社を辞めさせられました。下の妹は当時通っていた看護学校を自主退学させられました。

犯罪者の家族も犯罪者と同等と扱われてしまったのでしょう。当時は現代以上にそういった目が強かったでしょうし妹二人とも辞めざるを得なかったのでしょう。

また宮崎勤の叔父も事件後に会社を退職しています。また叔父は事件後に離婚をしたそうです。離婚については「宮崎」という苗字である事で妻に迷惑をかけないために離婚したと言われていました。

宮崎勤の母親には二人の兄がいました(俗にいう伯父)。ですがこの伯父も宮崎勤の事件後、退職転居したそうです。
 

「東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件」には5人目の被害者がいた?

東京都八王子市で当時6歳の女の子に性的な悪戯をしようとし、一旦車で連れ去るも一緒にいた被害者の姉が被害者の父親に報告し、それが元で警察に通報されました。逮捕までの経緯は宮崎勤が被害者の女の子の全裸ビデオを山林で撮影しようとしていた所を後から駆け付けた被害者の父親に取り押さえられ、宮崎勤は現行犯逮捕となりました。

魔法

2008年に宮崎勤の死刑が執行までにフジテレビに宮崎勤死刑囚から300通あまりの手紙が届いていました。

宮崎はフジテレビの企画で12年間ほど付き合いのあったテレビ局の人間がおり、フジテレビの公開した彼の手記は「創」に掲載されてきました。内容は最近きいたラジオ番組や治療の事ばかりで宮崎勤が死刑囚の独房暮らしであることもあって単調なものであったためしばらく手紙が掲載されない期間がありました。それを不満に感じた宮崎勤から彼の母親経由で掲載依頼が送られてきたそうです。テレビ局側は2008年7月に発表の8月号に掲載すると答えて準備をしていましたが、奇しくもそれが宮崎勤の遺構となり彼の死刑は2008年6月17日に執行されました。

手紙の内容は取るに足らない無機質的な内容が多かったのですが、その中でも彼なりに「薬の量が減った」「幻聴の声が10人から15人に増えた」など彼の病気の悪化が伝えられており、拘置所で適切な治療が行われていないと彼自身は主張していました。手紙を通してやり取りする中で明らかに症状が悪化しており「暑さも寒さも感じなくなった」などと書かれていたこともあったといいます。

このエピソードから宮崎勤死刑囚とやり取りのあった記者はメディアで報じられる宮崎勤と、実際に接見し手紙のやり取りをしていた宮崎勤のイメージはかなり違ったと言っています。

手紙

20世紀最大の凶悪事件を忘れないように

「宮崎勤」とは一体何者なのか。それはこの記事を読んで捉える人によって大きくかわってくると思います。彼の起こした事件は決して許されません。ですが彼の生い立ちや境遇は同情に値しますし、幼少期に差別された経験や誰からも理解されなかった事が彼の人格形成に大きく影響したのは否定できないと思います。

宮崎勤を庇うつもりではありませんが、これを読んでいる方はには、彼のように障害を持つ人間を差別しないでほしいと思います。

彼には彼なりの苦労があった事は事実です。もし今後障害のある方や不幸な生い立ちの方と出会うことがあったら差別せずそっとしておいてあげて欲しいと思います。障害のある方が少しでも落ち着いて過ごせる事を願っています。
 

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この記事のライター
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大学卒業したての新米ライターです。

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