良栄丸遭難事件とは?ミイラ船漂流の真相を日誌から辿る
良栄丸遭難事故、痛ましい海難事故が引き起こした恐怖の事件とは!? アメリカと日本両国を震撼させて、今も語り継がれる都市伝説ミイラ船良栄丸。 ミイラ船良栄丸の辿った遭難からそこで起こった事件を綴る3冊の日誌から辿る船員達の絶望の航海をご紹介致します!
目次
良栄丸遭難事故から
出典: http://tanakaharuo.blog.shinobi.jp
事故は太平洋で発生!
第三良栄丸という船をご存知でしょうか。
1926年の12月にエンジンの故障で遭難事故を起こし、11ヶ月に渡り北太平洋を漂流した船。
日本では検索してはいけない言葉、ミイラ船として有名な海難事故を起こした船です。
あの事件から91年たった今、あの傷ましい事件は人々の記憶から忘れ去られつつあります。
近年でも海難事故が多い中、また第三良栄丸遭難事故を忘れないためにこの日誌から第三良栄丸がなぜ遭難してしまったのか真相を探っていきたいと思います。
良栄丸遭難事故概要
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三崎漁港
1926年12月5日神奈川県の三崎漁港から出港しマグロ漁に従事していた第三良栄丸は天候の悪化により12月12日、漁を終えて三崎漁港に帰る途中、機関クランクシャフトが折れて船行の自由を失いました。
12月15日にようやく天候が安定しましたが、既に船は沖合1600km付近まで潮により押し流されてしまい、他の船の助けもなく、船長はアメリカへの漂着を決意しました。
しかし、不運なことに栄養失調による病気、食糧難による飢えにより船員たちは次々に死亡。
結果的に北太平洋を船員たちのミイラ化した遺体をのせた第三良栄丸は漂流し続け、11ヶ月後、アメリカの貨物船に発見され遭難事故が発覚しました。
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良栄丸という船
1924年秋に造船された良栄丸は、無水式焼玉機関を積んだ当時の当時の技術の粋を集めた優秀な船でした。
現在の小型漁船では無線設備を備え付けているのが一般的ですが、1920年代で無線設備を備えている漁船はごくわずかで、残念なことに第三良栄丸も無線設備を備えていませんでした。
無線設備を備えていれば、防げたかもしれない事故・事件であるだけに非常に運が悪い悲劇となってしまいました。
遭難事故から事件まで書かれた三冊の日誌
遭難事故では原因や経過が完全に分かることはほぼ無いと言われています。
なぜ、遭難したのか、何ヶ月漂流したのかという事実は生存者がいない場合、明確に分かるのほとんど無いとのことです。
ですがこの良栄丸の遭難事故は、その原因や経過まで明確に分かりました。
船体が沈没せず、船員の一人が遭難から死に至るまでの間、事件事故のことを克明にに記載して、記録に残していたからです。
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航海日誌
良栄丸でもそうですが、一般的に船は航海日誌をつけることを国に義務付けられています。
船の運航記録や天候、日常業務などを詳細に記録された日誌は海難裁判などでも事故事件による重大な証拠として取り扱われます。
良栄丸の航海日誌はやや記録者の日記めいた記述も多く、書くことで精神状態を平穏に保つことを目的として、記録されていたようです。
良栄丸遭難事故での都市伝説
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第三良栄丸の真相
第三良栄丸の真相は日誌により明らかにされましたが、12名の船員全てが死亡し、内9人がミイラ化した状態で発見された第三良栄丸の事故は、当時のマスコミによって過熱報道されました。
また見つかったのがアメリカであったことから、アメリカ側からも流言飛語が流されたことで「太平洋をいまだに彷徨い続ける幽霊船」とか、「ミイラ化した船員たちの乗るミイラ船良栄丸」というような都市伝説も生まれました。
これらはデマともとれる内容ですが、第三良栄丸の海難事故は、かなり衝撃的で恐ろしい凄惨な状況となっていたことを物語っています。
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ミイラ船良栄丸
良栄丸はカナダ西海岸バンクーバー島付近で漂流していたところをアメリカの貨物船「マーガレット・ダラー」号により発見されました。
船内のありさまは辺りに血が飛び散っており、石油缶に人の腕が入っていたり頭蓋骨を砕かれた白骨死体が横たわっていたそうです。
良栄丸遭難事故の当時の船員
良栄丸の当時の船員は12人。
船長の三鬼登喜造を筆頭に、機関長の細井伝次郎、友取の桑田藤吉。
船員に寺田初造、直江常太郎、横田良之助、井澤捨次、松本源之助、辻内良治、三谷寅吉、詰光勇吉、上平由四郎。
彼らは皆、栄養失調とそれによる病気、そして飢えにより死に至りました。
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事故を報道する当時の新聞
12名の死亡が確認されている事故ですが、実は遺体が確認されているのは9名だけです。
水葬されたのではと、推測されているのは機関長、細井伝次郎だけで後2名はどうなったのかはわかりません。
良栄丸遭難事故と事件を日誌から見る
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第三良栄丸で起こった事件
残された航海日誌の内容、また遺体の状況などから第三良栄丸で殺人事件が起こったことが確認されています。
第三良栄丸の事故の真相は航海日誌によりはっきりしているはずなのですが、アメリカ側の情報の誤報や過熱した報道により悪意のあるデマや流言飛語が飛び交い、いまだに真相は不透明なままです。
ですので、この日誌と日記を読み直しながら真相を明らかにしていきたいと思います。
良栄丸遭難事故当日
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日誌からの記述を参照したところ、12月5日に神奈川県三崎漁港からマグロ漁に出た第三良栄丸は銚子沖に出ましたが、エンジンの調子が悪く12月6日に銚子港に寄港。
ですがエンジンに異常が見られなかったため、そのままマグロ漁に出ていきました。
ところが12月12日、突如機関クランクシャフトが折れ、航行不能になった第三良栄丸。
そこに西からの強い季節風が追い討ちをかけ、船は沖へ沖へと流されました。
無線設備がなく、エンジンの出力が弱かった良栄丸には当時帆がついていました。
良栄丸遭難時の天候
船の故障と、急に襲ってきた暴風雨という自然災害に対して、当時の良栄丸では太刀打ちができず、対処の方法もありませんでした。
機関クランクが折れてしまった良栄丸では、それこそただ流されるがままだったのでしょう。
大正時代、天気予報は既にラジオ放送で始まっていましたが現代の天気予報に比べて精度が低くかったでしょう。
その為良栄丸に、12日暴風雨を避ける術はなかったのです。
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漂流してしまう良栄丸
日誌からの情報によりますと、風を伴う暴風雨、機関クランク部の破損により良栄丸の船員たちは帆を巻き上げ、その場に止まろうとしました、良栄丸のエンジンの機関部の故障により運航することができず、風のやむ15日までに、なんと600kmも流されてしまったとのことです。
良栄丸遭難事故での食料事情
日誌には船長が4ヶ月は食べられると食料について言及しています。
良栄丸は漁船ということで、海上であっても魚などを捕って食いつないでいけること、また沖合ですでにマグロを水揚げしていることからある程度食料については心配していなかったのでしょう。
少なくとも日誌には米4俵、一石6斗、醤油3升、酢4合、大根4本、ごぼうを6本、芋500匁、みそ1貫目、茶1斤、干ぴょう100目、鮪200貫、サメ20本、イカ300枚という記述がありかなり余裕があったとみられています。
飲料水などは備蓄に加えて雨水などでしのぐのも考えに入れていたとすれば、多少流されても大丈夫だろうと考えていたのでしょう。
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漁船などが漂流したら?
現在、漁船や客船など船が遭難、漂流した場合は衛生などでただちに場所が特定され海上保安庁や遭難救助機関、付近を航海中の船に連絡が行きただちに救助が来ます。
また遭難、漂流になった船にも基本的に万が一の時の備えとして生存艇(救命ボートなど)と共に食料や水など必要な備蓄がされています。
遭難での食料不足による栄養失調
良栄丸がどれほどの食糧の備蓄があったのか。
太平洋を漂流する間、4ヶ月は持つとされていた食料は干物などに加工されていたそうです。
ですが、漂流は船員たちが考える以上に過酷きわまるものでした。
野菜などの栄養不足も含め、狭い船内での運動不足、衛生面も悪化の兆しを見せており体調を崩すのは仕方のないことでした。
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渡り鳥
渡り鳥は食糧難に陥った良栄丸の貴重な蛋白源でした。
ですが、野菜不足による壊血病や脚気などを解消する食料とはいいがたく、ただただ飢えを満たすための食料にすぎませんでした。
良栄丸の下した決断
「アメリカに向かおう、太平洋に行こう」
そう決めたのは流され続けて8日目、12月20日のことでした。
風が止んだ15日から5日間の中でいくつか船をみかけた良栄丸はそのたびに火を焚き上げ大漁旗を振り大騒ぎしたそうですが、残念ながら相手方の船に発見されることなく流され続け、沖から港に戻ろうにも戻れない状態からどうにもならない状況を打破しようと、アメリカ行きを決断しました。
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なぜ結論にいたったのか
アメリカに行くという結論に至った真相は長い漂流時間により日本には行けない、という計算にいたったことがあるでしょう。
きつい西風の中、最初こそ八丈島に向かおうとしていた良栄丸ですがエンジンの出力の弱さ、機関クランク部の破損から、食料がある間に日本には着かないと判断したのでした。
遭難時の漁船がアメリカにいける可能性
航海日誌の内容から、気象学者の藤原咲平氏は、アメリカへの漂着を目指した良栄丸に対し「漁船でアメリカへの漂着はコロンブスのアメリカ大陸の発見より困難」とコメントしています。
事実、大した設備もない漁船のような小型船がアメリカを目指すのは非常に困難でした。
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発見された良栄丸
皮肉な話になりますが、11ヶ月を得て船員が全員亡くなった良栄丸は、太平洋を渡り切りアメリカへと辿り着いたことになります。
事故から事件へつながる犠牲者
流され続け、新年を迎え、元号が「大正」から「昭和」に変わったことも知らないまま漂流し続けた良栄丸は最初の一か月二か月は船の雰囲気は明るかったものの、三ヶ月を過ぎていくと船員たちの明るさや威勢も徐々に薄れていきました。
そして一気に均衡が崩れたのは最初の犠牲者として機関長細井伝次郎が亡くなってからです。
事故から4ヶ月
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12月12日に船が故障し流されてから、4ヶ月が経過した3月5日に、とうとう食料がつき、この日に機関長細井伝次郎が病気により亡くなってしまいます。
死者が出たことにより、船員たちは強い動揺を覚えるとともに、それまで以上に強く死を意識するようになりました。
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連名の遺書
細井氏の死亡により、船員たちは木板に連名の遺書を書くことになりました。
また各自封筒に遺髪と爪を入れ、例え自分たちが亡くなっても国に遺体の一部、名前だけでも帰れるようにと祈りました。
遭難事故最初の犠牲者から相次ぐ死亡者
この日を境に、死者が相次ぐようになりました。
おおよそは栄養失調からくる飢え、魚や鳥などしか食べられないことから栄養の偏りによる死亡でした。
3月9日には直江常太郎が餓死。
3月15日にはこれまで航海日誌をつけていた井澤捨次が病死し、彼に代わって松本源之助が航海日誌を引き継ぐこととなりました。
彼はあまり日誌をつけたことがないようで内容は日記というほうが近いでしょう。
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水葬
細井伝次郎、直江常太郎、井澤捨次の三名は日記には記述がないのですが、水葬にされたのではと考えられています。
12名中、遺体の見つからない3名は彼らであるというのが定説ですが、遺体が見つからない原因として他の説もあげられています。
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3月27日の狂気
寺田初造、横田良之助、両名が死んだのが3月27日でした。
この日二人は「おーい富士山だ」「アメリカにつきやがった」「虹が見える」などとうわごとをつぶやき、左舷の板にかみついて悶死するという事件がおこりました。
この恐ろしい死に様に残された船員たちは地獄の底に来たのだとおののいたと日記にはあります。
追い詰められた船員の殺人事件
出典: http://vivavida.jp
3月29日。
恐るべきその事件は、唐突に起こりました。
メバチを釣り上げた桑田藤吉に突如逆上した三谷寅吉が桑田の頭を斧で滅多打ちにするとい殺人事件が起こったのです。
その恐ろしい事件に壊血病に犯された船員たちは、血を口から滴らせながら立ち上がる気力すらなく呆然とするしかありませんでした。
殺人事件が起こったことで、船員たちの心はますます追い詰められていくこととなります。
抑えの効かなくなった狂気の事件
事件は次々と発生しました。
まず食糧難による事件です。
船長三鬼を筆頭に渡り鳥を捕まえては、もはや料理する手間も惜しみ生肉で食べていたと日記では語られています。
アメリカに向かっているかどうかも定かでないなか、生への欲求だけが空回りし生肉を食う忌避感すら失われていくこの事件は今後彼らが死ぬまで続いていくようでした。
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餓鬼
生肉をむさぼる自らを餓鬼畜生であると皮肉る日記の文には、それでも死にたくないという意識が見え隠れするようです。
飢餓による事件はまだまだ続く中、彼らにとってこの太平洋を漂流する中、縋るものがないまま細々と生を繋ぐしかありませんでした。
事件当時の精神状態
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事件のさなか、少なくとも正気を保っていられる者はほとんどいなかったように思われます。
もちろん殺人事件が起こったことにより、咎める気持ちはあったでしょう。
ですが、心のどこかでは仕方がなかったと諦める気持ちがあったはずです。
飢えや狭い船内に閉じ込められることによるストレス、精神的な余裕は一切なかったはずです。
地獄絵図となる良栄丸
3月29日の夜間に三谷寅吉が死亡。
この時点ですでに生き残りは5人、船内はどんどん荒れていき殺人事件などが起こり加害者被害者両方を失い、船員たちの心もどんどん悪化していきます。
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良栄丸の地獄絵図
その凄惨な現場は後に見つけたアメリカ船員たちがおののくほどひどいものでした。
遺体の散乱、血の跡、腐敗臭、その悍ましい飢餓の末の悪夢は当時有色人蔑視の強いアメリカ人たちに「野蛮人」と断じられても仕方のないほど恐ろしいものだったとされます。
良栄丸の悪化する船内
4月6日、辻内良治の死亡。
飢餓か病死かは分からないが、血を吐いて死に、残り4人。
死神が同居している、とはよくいったもので既に船員たちには太平洋を渡り切るだけの気概はなくただ漫然と死を待つ状態まで追い詰められていました。
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食料不足
食料のなさは深刻化しており、船にはりついた海藻や渡り鳥、魚で命を繋ぐ毎日でしたが栄養の偏りと失調により壊血病や脚気などの病気も同時進行していました。
また船内で死んでしまった者たちを水葬などにすることすらできないほど体が弱っていたのです。
第二の殺人事件
その事件は起こるべくして起こりました。
一つの事件は3月14日上平由四郎が遺体を切り刻むという凶行に走るという事件です。
食人に向けての準備だと思われ、日記には「人肉を食べる気力があるのなら救いはある」とされています。
食人事件、その言葉は重く深く船員たちの心にのしかかったはずですが、既に重大な病に犯されつつあった船員たちにとって船内の遺体もまた、食料としてみなさなければならないほど追い詰められていたのです。
そして3月19日、その食人行為により悲痛な事件がおきます。
料理室にて上平由四郎、詰光勇吉の人肉の奪い合いによる殺人事件です。
この事件に勝者はなく、二人とも血だるまになり死亡したと日記にはありました。
日記には、事件への見解について「地獄の鬼になっても日本に帰りたい」と残されています。
事件以降の精神状態の傾向
太平洋のなか、たった二人になった船長三鬼と惰性で日記を書き続ける松本。
彼らの中にはすでに絶望しかありません、殺人事件、食人にまで手を染めて、それでも陸地は見えずただただ流されていくばかりの船のなか、のたれ死ぬ以外の未来は彼らには見えてなかったでしょう。
二人とも重い脚気により小便大便も垂れ流しで、ただただ死を待つばかりでした。
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ミイラ船良栄丸の完成
見つかった遺体の内、ミイラとなっていたのはこの船長三鬼と松本源之助であると思われます。
ミイラ船のミイラの真相は、この二人がもはや一歩も動くことができずに亡くなってしまった結果だったのです。
広大な太平洋の中、食事どころか排泄も満足にできないまま死ぬことのなんと恐ろしいことでしょう。
こうやってミイラ船良栄丸は太平洋を死んだ船員たちと共に発見されるまで漂流し続けることとなったのです。
二つの事件後生き残った二人
たった二人になってしまった船内で、1927年5月11日、日記の内容は途絶えました。
ひたすらに生きようとあがき続けた二人は、それ以降の記録がないことから数日もしないうちに亡くなったのでしょう。
また、船長の三鬼は家族あてに遭難事故、殺人事件を踏まえたうえで遺書を残しています。
妻に対する帰れないことへの謝罪、娘息子たちへの将来の心配、そして長男には「漁師になるな」と書き記したことからうかがえる太平洋のなか、船でなすすべもなく死んでいくことへの無念を漂わせた遺書は船長の死後半年以上を得て、ようやく家族のもとへと届くことになります。
良栄丸遭難事故、事件での犠牲者
出典: https://japaneseclass.jp
海難事故、良栄丸事件
12名死亡。
この第三良栄丸の事故事件は、その過酷な内容からセンセ―ショナルにかきたてられることとなります。
水葬されたと思われる病死者
機関長、細井伝次郎。
初代日記記録者、井澤捨次。
船員、直江常太郎。
精神に障害をきたした死者
船員、寺田初造。
船員、横田良之助。
船員、三谷寅吉。
船員、詰光勇吉。
船員、上平由四郎。
殺人事件被害者
友取、桑田藤吉。
餓死、または病死
船長、三鬼登喜造。
二代目日誌記録者、松本源之助。
船員、辻内良治。
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遭難からの漂着
死者を乗せた良栄丸が発見されたのは1927年10月31日シアトル沖。
アメリカ貨物船「マーガレット・ダラー」号に発見された良栄丸は船内を確認された後速やかに回収され船内の遺体は現地の医者に検分してもらうこととなりました。
現地の医者が「食人を行った形跡がある」と断じたことでこの良栄丸の殺人事件が暴き立てられ、大きなデマや偏向報道のネタとしてアメリカ、日本を大きく騒がれることとなります。
出典: https://japaneseclass.jp
良栄丸のその後
ミイラ化した死体は船長三鬼と松本源之助のものとされ、遺体は現地で火葬されたのち日本に遺髪や遺骨を送られることとなりました。
ですが事件現場となった良栄丸は遺族からの意向で焼却処分とされました。
見つかった船は思ったよりも損傷がなく、修理すれば多少使える部品もあったそうですがやはり12人も死亡した事故、および殺人事件が起こったことにより良栄丸は弔いの意味も込めて燃やされることとなったのです。
アメリカと日本での当時の良栄丸遭難事故
この良栄丸にまつわる事件のその真相に関しては、日本とアメリカの両国でその扱いが若干混乱していました。
航海日誌が残っているため、内容の把握は簡単だったはずですが良栄丸の船内で起こった事件はあまりにも強烈で悲惨すぎることにより、一部の差別主義者にとってこの事件はよい批判の的になったのです。
そしてその主義主張が載せられた新聞が出回ることで事件は更に偏向されて報道されることとなりました。
出典: http://karapaia.com
事件による偏向報道
アメリカでの偏向報道はかなり酷いもので、大漁旗を「野蛮人の証」としたり、船には女性が乗せられていて暴行されて殺されたなどという、酷い内容でした。
その内容は真偽があいまいなまま、日本に伝えられ、事件の内容が改悪されたものが遺族の耳に入ることもあったようです。
食人や殺人事件に対する姿勢
航海日誌から明らかになる事件内容、事故のきっかけ、そしてその悲惨な事故事件を乗り越え最後の最期まで家族を思いやる船員たちの悲哀あふれる遺書に、最初こそ過熱した報道でしたがアメリカでも日本でも不幸な事件であったと認識を改めるようになりました。
もちろん食人、殺人については悪しき出来事ですが、追い詰められ続けながらも日本への帰還のためにアメリカを目指した船員たちへの哀悼がささげられるようになりました。
出典: http://blog.goo.ne.jp
奇妙な出来事
もっとも、この良栄丸事件ですが奇妙な事件が一つあります。
12月23日にアメリカのとある貨物船の船長がこの良栄丸に一度遭遇し救助が必要か呼びかけたという話があるのです。
ですが、その際に良栄丸の船員たちは一様に返答せず、近づいてみたのですが何も反応しないためバカバカしくなって引き上げたというのです。
もしこの話が本当ならば、そのまま続く事件を未然に防げたはずですがなぜ、良栄丸の船員たちは反応しなかったのでしょうか。
出典: https://honyakusitem.blogspot.jp
日本に残された遺族
日本に残された遺族たちは、それぞれ遺髪や遺骨を受け取りました。
「ひどい報道もあり、何故早く死んでくれなかったのかと思いもした。だが真相をキチンと新聞が載せてくれて嬉しい」と応えたとされます。
最後に
ミイラ船、良栄丸。
そのミイラ船になった良栄丸の都市伝説が生まれた真相は、偏向報道による過熱と過剰なデマでした。
アメリカや日本を震撼させたミイラ船は、海難事故により精神が追い詰められていった船員達と運命を共にした悲劇の船であったというのがすべての真相でした。
日本でミイラ船という悪名高い評判を受けている良栄丸ですが、その船は今、灰になり海の底で今もずっと漂い続けていることでしょう。