【勝田清孝とは?】連続殺人事件の詳細|テレビ出演も?息子のその後

20世紀最後の死刑囚と言われ、21世紀直前である2000年11月30日に死刑を執行された勝田清孝。彼が起こした一連の殺人事件を"勝田清孝事件"と呼びますが、そのどれもが残忍で自分勝手なものばかりです。この記事ではそんな昭和の凶悪犯・勝田清孝についてまとめます。

【勝田清孝とは?】連続殺人事件の詳細|テレビ出演も?息子のその後のイメージ

目次

  1. 1勝田清孝事件とは?
  2. 2勝田清孝が起こした113号事件とは?
  3. 3勝田清孝が起こした他の殺人事件は?
  4. 4勝田清孝の生い立ちとは?
  5. 5勝田清孝の動機はなんだったの?
  6. 6勝田清孝がテレビ出演!?
  7. 7勝田清孝の裁判の行方は?
  8. 8勝田清孝のその後は?
  9. 9勝田清孝事件関係者のその後
  10. 10勝田清孝事件を風化させてはならない

勝田清孝事件とは?

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勝田清孝が約10年間(1972年~1983年)の間に起こした一連の連続殺人事件を総称して勝田清孝事件と言います。この10年間で勝田清孝が殺害した被害者は8人にものぼり、それだけではなくこの勝田清孝は同期間内に300件もの窃盗を起こしていました。

そんな勝田清孝は1983年に逮捕され1994年に死刑が確定。2000年に死刑執行となったことから20世紀最後の死刑囚とも呼ばれ、犯罪史に歴史を刻む凶悪犯であり、絶対に風化させてはいけません。

この記事では多方からの視点で勝田清孝事件をまとめ、連続殺人犯・勝田清孝の始まりから死刑執行までを調べていきます。

加害者・勝田清孝は1972年から1983年まで約10年間にわたり凶悪犯罪を繰り返し、犯行方法も次第にエスカレートしていった。警察官を交通事故で呼び出し、駆けつけた警察官を車で轢き、銃を盗むという過激な犯行にもおよび、1982年10月31日から翌日にかけてその拳銃で、高速道路のサービスエリアから強引にヒッチハイクして乗り込んだ車の運転手を射殺、この一連の犯行で警察庁は「警察庁広域重要指定113号事件」に指定した。この取り調べの過程で、これ以外の7件の殺人事件を自供した[6]。

勝田清孝が起こした113号事件とは?

自己申告では22人の殺害(*立証できたのは8人)と300件以上もの窃盗に関わったと勝田清孝。最初の犯罪から10年間もの間凶悪な犯行を繰り返していた勝田清孝を語る上で、外せないのがこの警察庁広域重要指定113号事件です。通称は略して113号事件と呼ばれています。

113事件は警察官の拳銃を狡猾に奪った所が起点として、その強奪した拳銃「ニューナンブ38口径」を使い数々の犯罪を引き起こした一連の事件を指します。最終的には逮捕に到っており、勝田清孝が起こした最後の事件でもありますね。

この項では勝田清孝の逮捕に結びついた最後の事件でもある「113事件」の詳細をまとめていきます。

勝田清孝が警察官から拳銃を強奪

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1982年10月27日
21時頃、愛知県名古屋市千種区で勝田清孝が「盗難車がある」と警察に電話で調査依頼。連絡を受けた30分後に愛知県県警千種署の巡査が到着するもそこには勝田清孝を含め誰も存在しませんでした。

しかし巡査は近くにあったクラウンが停めてあったので、そのナンバーを控えます。その隙に勝田清孝が乗っていたクラウンが急発射。ナンバーを控えていた巡査を跳ね飛ばし、更に車を降りて鉄棒で数回殴打。巡査に怪我を負わせ拳銃「ニューナンブ38口径」を強奪しました。

スーパーで強盗未遂


1982年10月31日
15時頃静岡県浜松市中区鹿谷町のトウア名残店にて、顔や姿をヘルメットなどで隠し拳銃を持って侵入。店員を脅し「名古屋で拳銃が奪われた事件」をちらつかせ、現金を脅し取ろうとします。しかしこの時は店員が隙を突いて店の外に逃げ出したため未遂に終わりました。

ヒッチハイクした車の運転手を射殺

トウア名残店で強盗未遂を起こした日と同日の20時頃。名神高速道路・大津サービスエリアに停車中のワゴン車の助手席に乗り込み運転手を脅し名古屋まで連れて行くように指示。

発進から約1時間半後、運転手は勝田清孝から拳銃を奪おうと抵抗するも失敗に終わり、最終的に胸を撃たれ運転手は死亡しました。更にこの時も勝田清孝は運転手から現金4万円を窃盗しています。

勝田清孝は盗んだ拳銃で強盗を繰り返す

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1982年11月1日
名神高速道路・養老サービスエリアで、前述の運転手の殺害の際に血が付着した手袋を投棄。しかしこの時、ガソリンスタンド店員に一部始終を見られたと思いガソリンスタンドを強盗。同ガソリンスタンド店員の胸に発砲し逃亡。

勝田清孝は逃亡中に証拠品を投棄し京都方面に向かうトラックに載せてもらい、大津サービスエリアに駐車してあった自分の車(10月31日に巡査を轢いたクラウン)で自宅へと戻ります。

この時に撃たれたガソリンスタンド店員は奇跡的に全治2ヶ月で済み、尊い命は失われることはありませんでした。また、ガソリンスタンドの現金強奪には失敗しており、大津サービスエリアまで乗せたトラック運転手も被害は受けていませんでした。

この一連の事件を警視庁は同一犯の犯行と見て、一連の強盗殺傷事件を広域重要「113」事件と指定しています。

CHECK→警視庁広域重要指定事件とは?

一犯による犯行と思われる事件が複数の都道府県で起きた場合、あるいは犯行件数が1件でも、捜査の過程で他の管轄の都道府県警察組織に協力を要請した場合が指定の対象となり、警察庁が決定をする。そのため、複数の都道府県で事件が発生していなくても、指定される事件も稀に存在するが、基本的に、犯行件数が複数でも、一都道府県内に留まると見込まれる事件であれば、指定の対象とはならない。

勝田清孝は遂に逮捕へ


1982年11月28日
強奪した拳銃で京都府山科区のスーパー「エポック山科店」で言及152万円を奪って逃走しています。

1983年1月31日
名古屋市昭和区にある小さな引越センター社長が給与支払いのために銀行に向かった所を、勝田清孝が拳銃を突きつけ現金を要求。

指示通りに金を渡して車を発進させるも、間違いなく自分は殺されると思った社長は抵抗。拳銃を抑えられ逃げようとした勝田清孝は助手席から転げ落ちて外で揉み合いになるも、社長は勝田清孝を抑え込むことに成功します。

この後目撃者から警察へ通報があり、駆けつけた警察官によって勝田清孝は逮捕される形となりました。この逮捕を以って113事件における勝田清孝の反抗は終止符を打つこととなります。

勝田清孝が起こした他の殺人事件は?

113号事件が勝田清孝の最後の事件となりましたが、それまでにも勝田清孝は数々の殺人や窃盗を行っています。自供によると22人を殺害し300件以上の窃盗を行っているとのことですが、立証できたのは113号事件の被害者を除いた7人の殺害だけでした。

この項では現在勝田清孝の犯行であると確定している7人の殺害について紹介していきます。

1人目:24歳のホステス殺害事件

1972年9月に勝田清孝がはじめて起こした殺人事件です。殺人事件を起こす前から勝田清孝は借金苦のために空き巣を繰り返していたのですが、この日も空き巣をしようと京都府山科区の住居へ侵入。

しかし住民である24歳のホステス女性に見つかり、金を出せと脅迫するも「金が無いから体で良ければあげる」と言われ性的関係を持ちました。しかしその後に女性が抵抗したために近くにあったパンストで女性の首を絞め殺害し、現金1000円を奪って逃亡しました。

2人目:35歳高級クラブ経営者殺害事件

1975年7月、大阪府吹田市で車から降りた35歳の高級クラブ経営者の女性のバッグをひったくろうとして揉み合いになり、そばに落ちていたロープで首を絞めて殺害し、現金10万円を強奪します。女性の遺体は農業用水池に投棄し、女性が乗っていた車にも放火して証拠を抹消しました。

この事件は同棲相手や常連客が疑われることとなり、勝田清孝は捜査線情にすら上がりませんでした。またこの事件で勝田清孝は「夜の仕事をしている女性は現金を持ち歩いている」と学び、バッグのひったくりを繰り返していくこととなります。

3人目:32歳ホステス殺害事件


1976年3月、味をしめた勝田清孝はひったくりを繰り返しこの日は名古屋市中区で今日のひったくり相手を探している中で、32歳ホステス女性にターゲット定め、車からアパートに降りた所でひったくろうとしますが騒がれて首を絞めて殺害。遺体を田園に投棄。更に現金12万円を奪っています。

この時も勝田清孝は捜査線上に上がることはなく当日に食事していた弁護士が疑われる形に。この弁護士はマスコミなどにも追われ信頼を失い最終的に廃業しました。また、女性が勤めていた高級クラブも頻発する聞き込み調査で客が入りづらくなり、閉店に追い込まれてしまいました。

4人目:28歳パート女性殺害事件

1977年6月、名古屋市南区で鍵をかけずに犬の散歩に出たパート従業員の女性のマンションに侵入。現金4万円が入った封筒を見つけるもも帰ってきたパート従業員女性と遭遇し、騒がれたために紐で首を絞めて殺害しています。

この時も愛人関係にあった男性が疑われる形に。しかしこの男性は愛人との生活を支えるために売上金を着服しており別件で逮捕されました。

5人目:美容師の女性殺害事件

1977年8月、名古屋市昭和区で空き巣に入れそうなマンションにて顔を帽子やメガネで隠し物色をしていた時に、不審な姿をマンション住民である美容師女性に目撃されます。

女性に騒がれるとまずいと判断した勝田清孝はパンストで首を絞め殺害、女性が身に着けていた45万円相当のダイヤの指輪を盗んでいます。

この女性にも愛人が存在しており、お相手は女性の勤め先の部長でした。やはり勝田清孝は疑われることもなく、この男性が疑われることになり会社をやめ離婚をする形となりました。

6人目:労働金庫職員の男性殺害事件

1977年12月、神戸市中央区のビルで労働金庫職員の男性を襲撃。至近距離で散弾銃を発射し、現金410万円を奪った鞄を強奪しています。この男性は即死ではありませんでしたが、左肩から肺にかけた30数発の散弾が入っており、事件から2日後に出血多量で亡くなりました。

この時に使われた猟銃は奈良県の車上荒らしで入手したもので、逃走に使ったトラックは名護斜視の製菓会社から盗まれたトラックでした。

7人目:スーパー職員の男性殺害事件

1980年7月、名古屋市名東区のスーパーの夜間店長である35歳男性を襲撃。散弾銃を押し付け脅しながら、スーパーの金庫を開けさせ576万円の現金と商品券を強奪しています。

その後、男性に車を運転させ車庫に止めさせるも、男性が抵抗したために男性を猟銃で射殺しました。この時の猟銃は猟銃愛好家の空き巣に入って調達したものでした。

以上が勝田清孝が起こした上で、立証できている殺人事件となります。

勝田清孝の生い立ちとは?

10年にも渡る年月の中で幾度となく殺人・窃盗を繰り返した勝田清孝。冷酷に冷静に、窃盗や逃亡の口封じのためだけに数々の人を殺害していく姿は、もはや畏怖以外の言葉が浮かびません。

この項ではそんな凶悪犯である勝田清孝の生い立ちを紹介していきます。

勝田清孝は昔から盗み癖があった

勝田清孝は比較的お金持ちの農家の長男として京都府木津川市鹿背山の集落で生を受けました。1歳上の姉がいるため、第二子という形になります。何事もなく高校まで進学し、吹奏楽部に所属していますが、この時から手癖は悪いものでした。

高校時代のエピソードとして、小遣いの多い部員と張り合うために構内食堂で食券を盗んで友人に奢っていたことから始まり、車上荒らしに売店荒らしに車両の窃盗などを繰り返し、盗品を売っていたそうです。

しかし1965年にひったくりで逮捕され、高校は退学処分となり少年院送りとなります。

勝田清孝が女性と駆け落ちし結婚


1966年に少年院から出た後は父親が勤める自動車部品工場に就職するも、職場でロッカー荒らしが続出。勝田清孝に疑いの目が向けられることとなり、居づらくなって退職。その後も父親の紹介で職場を転々とするも、長く務めることはありませんでした。

翌年の1967年に結婚を考える相手と出会いますが、相手女性の家族からは「少年入り帰り」勝田家からは「家の格が違う」と猛反対を受け、1968年に二人は大阪府大阪市生野区へ駆け落ちという道を選び、勝田清孝は鉄工所で働き始めます。

その2年後の1970年、二人は両家に認められ結婚する形となりました。翌年1971年に息子(長男)が誕生しています。

勝田清孝は結婚後に消防士に

数々の犯罪を起こしている反面、勝田清孝の勤務態度は一貫して真面目であったそうです。1972年に父親のすすめで消防士採用試験を受験し合格。

1974年には消防副士長に昇格するなど、勤務態度も評価されていました。1980年には息子(次男)が誕生するなど妻との結婚生活も普通でした。

しかしその裏で借金を重ねており、非番の時に長距離輸送をするなどのアルバイトにも従事していました。犯罪を重ねている間にも勝田清孝は消防員はやめることもなく1980年の11月に車上ねらい事件で逮捕され失職するまでの間に、全国競技大会に2年連続入賞し表彰もも20回受けています。

1980年に事件を起こし失職した後の勝田清孝はトラック運転手として再就職することとなりましたが、この頃から妻には愛想を尽かされ始めたと言われ、別居する形に話が進んでいたと言われています。

勝田清孝の動機はなんだったの?

数々の殺人や強盗、窃盗を繰り返した勝田清孝。最初は只の空き巣狙いでしたが、徐々にその犯行はエスカレートしており、後期には猟銃を使うことを覚え、最終的には警察の拳銃を強奪するレベルにまで達しました。

この項ではそんな勝田清孝の犯罪の始まりについてまとめていきます。

勝田清孝は少年院帰りの十字架を背負う

自らが起こしたことではありますが、勝田清孝は高校時代に少年院に送致され、退所後も偏見の目を向けられ、その経歴は勝田清孝の若い時代に深く影を落としています。

再就職先であった自動車部品工場に置いての窃盗の疑いもそうですが、決め手となったのが1972年の1月。奈良県奈良市の加茂町で女性銀行員が暴行後に殺害される事件が起きました。

少年院帰りである勝田清孝は周囲や警察に疑いの目を向けられ職場に居づらくなり、荒れていきます。この時は友人の証言で勝田清孝の潔白は証明されています。

勝田清孝が動機である借金を作った理由は?

少年院帰りということだけで周囲に奇異の視線を向けられ、何かあるとまっさきに疑われてしまう勝田清孝は荒れました。高校生時代の窃盗事件エピソードでを見てもそうですが、勝田清孝には見栄っ張りの気配もありましたね。

そのうっぷんと見栄っ張りが複合された結果、スナックに通い高級酒を飲みチップを弾み、高級車をローンで購入。裏庭に無線アンテナを建てたり、ゴルフの会員権を購入したりと、身の丈に合わない散財を始めます。

これを勝田清孝が払いきれるわけもなく、あっというまに借金で首が回らなくなりこの頃から空き巣を始めることとなりました。その行動が徐々にエスカレートしていったのが、勝田清孝事件となります。

安定した生活を手に入れたように見えるが、一方で勝田は、分不相応なところがあった。時あたかも高度成長期。車社会が到来し、世の中の暮らしぶりは便利で贅沢になりつつあった。「消費は美徳」といわれていた時代である。勝田は虚栄心からなのか、豪華なマンションに移り、派手に飲み歩き、カッコよく高級スポーツカーを乗り回す。やがて、愛人もできた。

勝田清孝がテレビ出演!?

勝田清孝ですが1977年6月にパート従業員を殺害した6日後に、当時朝日放送で放送されていた「夫婦でドンピシャ!」というクイズ番組に、妻とともに出演しています。この時は消防士姿で登場した饒舌で明るい旦那といった感じで、ごくごく普通の人間にしか見えませんでした。

番組中でも妻のことも惚気ており、仲睦まじい夫婦を演出。結果的にこの時、賞金8万円と商品券10万円を持ち帰っています。

勝田清孝の裁判の行方は?

こうして1983年に起きました113号事件で逮捕となった勝田清孝ですが、逮捕後に関しては非常に警察に対して素直でしたこの裁判で勝田清孝が問われた罪は33であり、戦後犯罪史上に残る数となっています。

この項ではそんな勝田清孝の製番に行方について紹介します。

勝田清孝が殺人事件を自供した理由は?

先に紹介しました113号位前の殺害事件も全て勝田清孝の自供により判明しています。特に1972年から1977年にかけて行った殺害事件は迷宮入りしており、警察も勝田清孝がやったのかと何度も確認することとなりました。

勝田清孝は逮捕後に留置場で拘束されていましたが、夜になると自らが殺害した相手の怨霊に苦しめられ、寝付けずに便秘に悩まされていたそうです。そこで楽になるためにすぐに自供しようと決意したんだとか。

勝田清孝の死刑が確定

勝田清孝はこの裁判で立証できた先に自供した7人以外の殺人についても口にしており、「まだ10人くらい女性を殺している」「最初に殺したのは16歳下17歳の頃」と証言し、当時は新聞に18人を殺害したのかという見出しが踊ることになりました。しかし記憶が曖昧なために立件されていません。

裁判は1986年の時点で一審で死刑判決が出ており、最後まで覆ることはありませんでした。この後、弁護士が勝田清孝を説得し最高裁まで争うこととなりましたが、遂に1994年に死刑が確定。実に逮捕から11年、最初の殺人事件から20年余りが経過した決着でした。

勝田清孝のその後は?

数々の凶悪犯を繰り返した勝田清孝ですが、拘留中や死刑執行前も獄中はどうだったのでしょうか?この項では勝田清孝のその後について触れていきます。

勝田清孝は逮捕後に人間不信に

勝田清孝は1986年に一審で死刑が確定した後、徐々に人間不信になっていたと言われています。マスコミの取材を受けず、自分の味方である筈の死刑廃止運動も意に介さずに自分の空間に閉じこもり、獄中の外との連絡を完全に断っていたそうです。差し入れの小説や雑誌は購読していたそうですが、完全に自分の殻に引きこもっていました。

マスコミも勝田清孝が世間の注目の的なのは知っているので、なんとかして接触しようとしましたが失敗を繰り返し、ますます勝田清孝は人間不信に追い込まれます。

勝田清孝の心を一人の女性が開く

勝田清孝は遺族の弁済金に当てようと「冥海に沈みし日々」と獄中手記を出版しています。この本自体はそれほど売れず8000部あまりで絶版。印税は85万円で弁済には遠いものでした。

しかしこの本を読んだ「カトリック名古屋教区正義と平和委員会」に所属する名古屋在住の主婦であるクリスチャンである来栖宥子さんは獄中手記に感銘を受け、1988年から8年間にも渡り交流を開始。

手紙は400通、面会は200回を越え、勝田清孝も「たった一人の心友」とし徐々に心を開いていきました。

更に1994年に前記の来栖宥子さんと交流が続けられるようにと、来栖優子さんの実母が勝谷清隆を養子縁組にし、藤原姓に偏向。勝田清孝は藤原清隆として1994年に死刑判決が確定することになりました。

勝田清孝の最期は?

勝田清孝は死刑が確定する前から点訳(目が不自由な人のために点字を訳すること)作業を行っていましたが、二度と獄外に出られないことが確定した死刑判決後も社会貢献として点訳をボランティアで続けています。勝田清孝なりの贖罪だったのでしょう。

これ以降は死刑執行まで大きな動きもなく、勝田清孝は2000年の11月30日、20世紀最後の死刑囚として死刑が執行されました。享年52歳でした。

勝田清孝事件関係者のその後


この事件によって大きく人生を狂わされた人は多く、数々の冤罪を誘発した事件でした。

特に1972年~1975年の女性殺害事件については、「誰かの愛人」であったり「人脈が広い水商売の女性」であったりと人間関係が複雑であり、警察も最初は怨恨や痴情のもつれとし身内を疑うことが非常に多いのが実際のところでした。

ただの通りすがりで無計画に殺人や窃盗を重ねていた勝田清孝は捜査線上に上がることはまったくなく、疑われた縁者の男性たちがその後失職したり、社会的地位を長くに脅かされたりしていて勝田清孝が遺した爪痕は非常に大きいです。

勝田清孝の息子や妻はどうなった?

勝田清孝と駆け落ちした妻ですが、勝田清孝の愛人発覚により自殺未遂を起こし、家を出ていき、子供も妻が連れて行ったとされています。逮捕を境に離婚していますが、1982年の時点では勝田清孝は愛人と同棲しており、逮捕後の息子や妻の足取りは不明となっています。

昔あった勝田清孝事件を思い出しましたが、強盗殺人を繰り返して何十人も殺し、もう十年も前に死刑が執行されましたが、本人には奥さんと子供がおり、昔は家族でクイズ番組にまで出ていました。
逮捕、起訴後奥さんとは離婚したそうですが、子供等は今でも生きて生活してる筈です。元の奥さんは本人の事は隠しても子供等は事実を知っていると思います。
そのような境遇に産まれた人間は一生苦しまねばならぬと思いますか?

親を選ぶことはできないとよく言ったものですね。

勝田清孝事件を風化させてはならない

最終的に贖罪の気持ちがあったことは多少見受けられますが、身勝手な都合で数々の人の未来を絶ち、20世紀最後の死刑囚となった勝田清孝の所業は許されるものではありません。

また、立件されていない本人自供の分も含めれば最終的な殺害人数は22人となっており、これは戦後で一番の数字です。窃盗300件以上を含め、決して勝田清孝事件を風化させてはいけません。

最後に他の凶悪事件も紹介しますので、勝田清孝事件と見比べてはいかがでしょうか?

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