『東海村JCO臨界事故』放射能の恐怖を実感する画像&被爆者やその後まとめ

日本史上最悪と言われる東海村JCO臨界事故のその後、東海村JCO臨界事故の犠牲者である大内久氏と篠原理人氏はどうなったのでしょうか。生存者として治療を受けていた大内久氏と篠原理人しのその後の状態を詳しく解説していきます。

『東海村JCO臨界事故』放射能の恐怖を実感する画像&被爆者やその後まとめのイメージ

目次

  1. 1史上最も最悪な臨界事故 東海村JCO臨界事故とは
  2. 2東海村JCO臨界事故の概要
  3. 3東海村JCO臨界事故の起こった原因
  4. 4東海村JCO臨界事故の被害者 大内久氏、篠原理人氏のその後は
  5. 5東海村JCO臨界事故 大内久氏のその後83日間の記録
  6. 6東海村JCO臨界事故 引き伸ばされた大内久氏、篠原理人氏の死
  7. 7篠原理人氏の被曝の影響がわかる顔写真
  8. 8東海村JCO臨界事故の際使われた薬
  9. 9東海村JCO臨界事故の決死隊 臨界を止めに行った決死隊について

史上最も最悪な臨界事故 東海村JCO臨界事故とは

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歴史に埋もれさせてはいけないほどの悲しさ、惨たらしさの東海村JCO臨界事故。原発問題が活発に取り上げられている今、人間への被曝はどれほど無残なものなのかを皆が理解しなければなりません。
そしてより多くの人々にこの東海村JCO臨界事故のことを知ってもらい、二度と起こしてはいけないと訴えかけていきましょう。

東海村JCO臨界事故の概要

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東海村JCO臨界事故は、1999年9月30日に、茨城県那珂郡東海村にある住友金属鉱山の子会社である核燃料加工施設「JCO」が起こした原子力事故(臨界事故)のことです。
この臨界事故は日本国内で初めて事故被曝による死者を出しました。
その日、JCOの核燃料加工施設内で核燃料を加工中、ウラン溶液が臨界状態に達したため核分裂連鎖反応が発生しました。この状態が20時間も持続し、至近距離で放射能を浴びた作業員三名中二名が死亡し、一名が重症、667人の被爆者を出す臨界事故が発生しました。

東海村JCO臨界事故の起こった原因

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東海村JCO臨界事故が起こったのは、旧動燃が発注した高速増殖炉の研究路である「常陽」用核燃料の製造工程における、JCOのずさんな管理に問題がありました。

JCOは燃料加工の工程で、国の管理規定に沿った正規のマニュアルではなく「裏マニュアル」による管理をしていました。
その裏マニュアルの一例をあげると、原料であるウラン化合物の粉末を溶解させる工程では、正規マニュアルならば「溶解塔」という装置を用いなければならないというところを、裏マニュアルではステンレス製のバケツで溶解させるという手順でした。

事故当日は、この裏マニュアルをさらに改悪してしまった手順で作業が進んでいました。
具体的には、最終工程である製品の均質化作業で、臨界状態に至らぬよう形状制限がなされた容器(貯塔)を使わなければならないところを、作業の効率化のために、別の背丈が低く内径の広い冷却水のジャケットに包まれた沈殿槽を使って作業工程が進められていたのです。

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その結果、濃縮度18.8%の硝酸ウラニル水溶液を不法に、大量に貯蔵した容器の周りに張ってあった冷却水が、中性子の反射材となったために溶液が臨界状態になって、JCO臨界事故が起きたのです。
ステンレスバケツで溶液を扱った作業員の一人は、臨界事故が起きた時のことを「約16kgのウラン溶液をバケツから溶解槽に移しているとき、青い光が出たのを見た」と語っています。

東海村JCO臨界事故の被害者 大内久氏、篠原理人氏のその後は

直接作業をしていた三人のうち、生存者は横川豊氏一人だけでした。
そのほかの二人、篠原理人氏と大内久氏は亡くなっています。
生存者の横川氏の被曝量は1~4.5シーベルト、篠原氏の被曝量は6~10シーベルト、大内氏の被曝量は6~10シーベルトでした。

シーベルトは被曝線量の単位で、致死量は6~7シーベルトと言われています。

東海村JCO臨界事故 大内久氏のその後83日間の記録

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大内久氏はJCO臨界事故に巻き込まれてから83日間生存者として生き残りました。
以下はその実際にあった生存者としての様子です。

バケツ臨界事故発生から 1日目

大内氏は、最初の時点では生存者として健康な様子さえ見せていました。
日焼けのように赤くなった皮膚と腫れた手以外は、全く異変が見当たりません。そのため生存者として扱われたのです。

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この画像は大内氏の事故当日に撮られた右手の画像です。
画像を見てみると指が腫れている以外は普通のように見えます。

臨界事故のその後 大内久氏、篠原理人氏の身体に何が起こったのか

大内氏や篠原氏の症状は、染色体が破壊されたことによる多臓器不全でした。その名の通り複数の臓器がその機能を失ってしまう症状のことです。

最初に出てきた症状は、血液の細胞からでした。染色体が破壊されたことで、白血球の数が急激に減少しウィルスや細菌に感染しやすくなってしまったのです。

バケツ臨界事故のその後 発生から7日目 増えていく症状

バケツ臨界事故発生から一週間がたったころ、大内氏の身体にはさらなる症状が出始めました。皮膚の再生ができなくなり、ボロボロと剥がれ落ちていったのです。
それだけではなく肺に水がたまり呼吸が困難になっていたり、感染への恐怖との戦いも同時に症状として出ていたのです。

バケツ臨界事故のその後 被曝から18日目 細胞の変化

バケツ臨界事故が発生し、放射能がどんどん体を蝕んでいました。移植した染色体に傷がついていたのです。
大内氏の身体は放射能の影響を受けて、自らの細胞が放射能を出すようになっていたのです。その放射能が移植された染色体を傷つけていました。

臨界事故から27日目 増えていく症状

症状は皮膚と血液だけでは終わりませんでした。大内氏の腸内で、その症状は進行していました。
腸内の粘膜が白く変色して、垂れ下がっていたのです。
大量の下痢も始まります。一日に3リットルもの下痢で、大内氏はどんどん衰弱していきます。
下痢が始まって三週間がたったころ、腸内で出血の症状がみられるようになりました。粘液がはがれたところから染み出した血液があふれていたのです。
出血の症状への対策のため、輸血が一日に10回以上も行われる日もありました。皮膚の失われたところから血液や体の水分がしみ出していきます。
その症状のためにガーゼで体のほとんどを覆わなければならなくなりました。
この症状により一日10リットル前後の水分がしみ出していきます。大内氏は同じだけの水分を補給しなければならなくなりました。

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画像は大内氏の被曝から一か月がたったときの右手の画像です。画像を見ればわかる通り皮膚の全体が爛れたようになっています。
先ほどの画像と見比べてみると、放射能の恐ろしさがよくわかります。

生存者として治療を受けていた大内氏 事故発生から59日目

治療が始まって二か月近くが経ったこの日、午前七時ころに突然大内氏の心臓が停止しました。
医師が処置を行うと、いったん動き始めたものの再び停止、動いては止まり、が三度繰り返されました。分刻みの心臓マッサージと強心剤の投与が行われます。
実に一時間もの時間が経ち、ようやく心臓が鼓動を始めます。しかし、一時的に心臓が止まったせいで脳や腎臓など全身の臓器が悪化していきました。
大内氏は家族の呼びかけにも答えることができず、機械と薬によって生かされていたのです。

放射能の影響が大内氏の全身に…… 被曝から65日目

大内氏の体内で新たな異変が起きます。放射能の影響で免疫細胞が正常な白血球を攻撃し、白血球の数が急激に減少したのです。輸血と血液を増やす薬の投与を繰り返しましたが、薬の効果もなく白血球の数は減少するばかりでした。
このことには医師もなすすべなく、絶望するばかりでした。

83日目 ついに亡くなった大内氏

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83日目の夜、ついに大内氏は息を引き取りました。多量の放射線を浴び、大内氏の身体はもうボロボロでした。
放射能の影響を受けにくいとされる筋線維でさえ、多量の放射線のせいでほとんどが失われていました。ただ一つ、心臓の筋線維を残しては。
心臓の筋肉だけは、放射能の破壊の影響を受けなかったのです。
それはまるで、最後まで苦しめられるよう、わざと生かしておいたかのようです。

東海村JCO臨界事故 引き伸ばされた大内久氏、篠原理人氏の死

放射線の影響はすぐには出ません。ゆっくりと、だんだん現れてくるのです。
そのため、放射能の影響で即死することはありません。じっくり苦しみぬいて命を落とすのです。
大内氏と篠原氏もそのように亡くなっていきました。

篠原理人氏の被曝の影響がわかる顔写真

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篠原理人氏の顔写真の変化です。顔写真を観ればわかる通り、放射線の影響の特徴が出ています。

大内氏の顔がだんだんと変化していっているのがはっきりわかります。一枚目の篠原氏の顔写真は普通ですが、被曝直後の顔写真(9月30日の顔写真)は顔がパンパンに腫れています。その後もだんだんと変化を続け、1月4日の写真は元の面影もありません。

篠原理人氏 事故のその後は

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篠原理人氏も大内氏と同じように被曝の影響を受けました。事故のその後病院に移され、集中的な治療を受けたのです。
しかしそれも生を少し引き延ばすにすぎず、2000年4月27日に亡くなられました。

篠原理人氏の症状

写真を見るとわかりますが、篠原氏は筋肉が委縮して目も開けられない状態だったようです。さらに肺炎やDNAの損傷、声も出せない状態にありました。
臨界事故というのはそれほどまでに恐ろしいものなのです。

東海村JCO臨界事故の際使われた薬

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硝酸銀液です。この薬の特徴は患部を焼いてしまうことで、その特徴のために劇薬として指定されています。危険な特徴を持っているため、大変危険なものです。

この事故の際に治療で使われた薬は硝酸銀液という薬です。この薬の特徴は、患部を焼いて治すということです。この特徴のため、かなりの荒治療ということになります。
硝酸銀の特徴は粘膜に触れると組織を破壊して腐食させるということです。その特徴のため、口内炎の治療に使われていたことがあります。

東海村JCO臨界事故の決死隊 臨界を止めに行った決死隊について


決死隊として選ばれた18名が、決死隊として臨界を止めに行きました。
JCOの社員の中からベテランの8組16人と、防護服を着た作業員二人が決死隊として選ばれたのです。

その際に決死隊が受けた被曝量は、統計の範囲内で、健康への被害はないとされいます。

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