【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】はちゃめちゃ軍人のチート人生に迫る!
第二次世界大戦で活躍したハンス・ウルリッヒ・ルーデルという軍人をご存知ですか?スツーカというドイツの急降下爆撃機乗りでありながら、エースパイロットと言われています。そんなハンス・ウルリッヒ・ルーデルの伝説とも言える人生を大公開いたします!
目次
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】とは?
第二次世界大戦時のドイツ空軍に、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルという軍人が存在していたことをご存知でしょうか?彼は戦闘機ではなく急降下爆撃機という、いわゆる空中で戦闘する軍用機ではなく攻撃対象を空中から爆撃する軍用機のパイロットでした。
しかしながら、彼はドイツ空軍においてエースパイロット(撃墜王)でした。エースパイロットの定義とは、空中戦において敵機を5機以上撃墜させた(主に戦闘機の)パイロットに送られる称号です。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは爆撃機スツーカだけでなく、戦闘機にも搭乗していたこともありますが、爆撃機スツーカで戦闘機を撃墜させたとも言われています。
今回はその不死とも言われた伝説の軍人、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの人生に迫りたいと思います。彼の生い立ちから戦後の生活、彼が出した自伝や、残した名言の数々、そして有名な逸話や葬儀など、知れば知るほど驚くルーデルの魅力をご紹介していきますね。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の生い立ち
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは1916年7月2日、プロイセン王国のニーダーシュレージエンというところで生まれました。プロイセンとは、現在のドイツ北部からポーランド西部にあたります。
父親は牧師をしており、母親と二人の姉、そしてルーデルの5人家族でした。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルが8歳のとき、母親からパラシュートのおもちゃをもらい、そのパラシュートで遊ぶうちに飛ぶことに興味を持ったそうです。空軍のパイロットになることを夢見るルーデル少年は、後に士官候補生としてドイツ空軍学校へ入学しました。
そのドイツ空軍学校の倍率は100倍だったそうです。かなり高い競争率ですよね。そんな難関を突破し戦闘機のパイロットとして訓練をしていたのですが、卒業するころに「卒業生は全員爆撃隊に編入される」という噂が流れました。
噂を信じたハンス・ウルリッヒ・ルーデルは、バカ正直に(本人談:自伝「急降下爆撃」より)爆撃隊に志願したそうです。しかし実際には卒業生のほとんどが戦闘機隊に配属されました。
ルーデルは、急降下爆撃隊に配属されましたが、間もなく偵察隊に転属となりました。訓練校で偵察隊パイロットとしての訓練を受けたのちに、長距離偵察飛行隊の少尉(当時の階級)として第二次世界大戦に従軍しました。
第二次世界大戦が開始してからスツーカのパイロットに転属となりましたが、バトル・オブ・ブリテンでは転換訓練の最中だったので作戦に参加できず、1941年6月23日のバルバロッサ作戦において初めて急降下爆撃機のパイロットとして戦闘に参加しました。
急降下爆撃機のパイロットとして、信じられないような功績をおさめ、終戦を迎えました。戦後には28歳年下の妻(ルーデルにとっては二人目の妻。一人目の妻とは戦時中に結婚)と結婚をしたり、戦闘機の開発に協力したり、登山をしたりし、余生を過ごしました。
彼の残した戦績や戦果、受賞勲章だけでなく、数々の名言や逸話、葬儀などが今でも語り継がれるほど、ルーデルはとてもすごい伝説の軍人となりました。なお、最終階級は大佐ですが、ネット上でのルーデルの敬称は閣下(将官以上の呼び名)となっています。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の戦歴
以下の戦績・戦果は公式記録に基づくものだそうです。あまりにもすごい戦果のために伝説と言われることもあるそうですが、出撃回数もものすごいですよね。これだけ出撃して、更に爆撃の才能があると考えれば、あるいは……とも思うのですが、それにしてもすごい戦果です。
なお、ルーデルは自分の戦果を戦友たちにわけていたことがあると、戦友たちが証言しているそうです。また、出撃回数も書類を偽造し病院を抜け出して出撃していたという説もあるため、実際には戦績や戦果はこれよりも多い可能性があるそうです。
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの戦績
出撃回数 2530回(そのうちフォッケウルフでの出撃回数は430回)
被撃墜回数 30回
戦闘による負傷 5回
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの戦果
戦車 519輌(戦車部隊一個軍団撃滅相当)
装甲車・トラック 800台以上
火砲(100mm口径以上) 150門以上
装甲列車 4両
戦艦 1隻(マラート)※共同戦果(一番主砲塔、二番主砲塔、艦橋、一番煙突を爆撃)
嚮導駆逐艦 1隻
駆逐艦 1隻
上陸用舟艇 70隻以上
航空機 9機(戦闘機2、爆撃機5、その他2。うち1機は37mm砲による)
ハンス・ウルリッヒ・ルーデルの受賞勲章
黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章(唯一の受賞者)
騎士鉄十字章(出撃回数400回、戦艦マラート撃沈)
柏葉付騎士鉄十字章(出撃回数1000回)
柏葉剣付騎士鉄十字章(出撃回数1600回)
柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字章(出撃回数1800回、戦車撃破数200輌)
黄金柏葉剣付ダイヤモンド騎士鉄十字勲章(出撃回数2400回、戦車撃破数463輌)
金・ダイヤモンド付空軍前線飛行章(2000回出撃記念ペナント付)
航空戦での特別の戦果をたたえる名誉杯
戦傷章金章
金・ダイヤモンド付パイロット兼観測員章
ドイツ十字章金章
二級・一級鉄十字章
勲功章(ハンガリーより)
武勇章銀章(イタリアより)
余談:ソ連軍によってかけられた賞金は10万ルーブル(現在の日本円で約5000万~1億円)
※当時の労働者の年収は600ルーブル
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の逸話
ルーデルには数々の逸話があります。その逸話の一部をご紹介したいと思います。あくまで逸話の一部ではありますが、あまりに強烈な逸話ですので、信じがたいと思いますが事実だそうです。
まず爆弾投下についての逸話ですが、1t爆弾を落とす際に効力半径が3000フィートのためそれ以上の高さから投下するところを、ルーデルはダイブブレーキなしで直角に急降下し、高度900フィートでの投下をしたそうです。戦艦マラートを攻撃することに夢中になり、3000フィート以下で投下してはならないということを忘れていたそうです(本人談:自伝「急降下爆撃」より)。爆弾の影響はどうだったのでしょうか。
また、味方飛行場以外での着陸を禁止されたときには、撃墜されて不時着した仲間を救出する際に下降してそのまま滑走し、仲間を救出したあとに離陸をし、着陸をすることなく救出を成功させたという逸話があります。
確かに「着陸」はしていませんね。彼は一休さんなのでしょうか。
ルーデルの撃墜された回数は30回にも及び、被撃墜数もナンバーワンなのだとか。そしてそれらはすべて対空砲によって撃墜されたものだそうです。
あるとき撃墜された彼は、重症を負いつつも歩いて陣地へと帰り、先に救出されていた相棒のガーデルマン(肋骨を三本骨折したので手当てをしてもらっていました)を見つけ「休養などはとっていられない。すぐに出撃だ!」とガーデルマンを引っ張って戦場に向かったという逸話まであります。二人とも重症を負っているはずなのに、タフマンもいいところです。不死と言われる所以はこういったところからなのでしょうか。
なお、ガーデルマンに放った言葉はルーデルの名言とされています。
ブダペストにおいてソ連兵に高射砲で撃たれた際には入院を余儀なくされるのですが、6週間かかると言われていたにも関わらず入院わずか8日で出撃していたそうです。そのときの名言は、後述いたします。
またあるときは、対空砲で撃たれて片足が吹き飛んでしまい、ガーデルマンに「足がなくなってしまった」と冷静に言ったそうです。ガーデルマンもガーデルマンで、「何を言っているんですか、足が吹っ飛んだら話なんかしていられないでしょう。そんなことより左翼が燃えているので不時着しましょう」と答えたのだとか。
ガーデルマンはそうやってルーデルを励ましたのでしょう。ガーデルマンの発言も、名言と言っても過言ではないくらいの発言ですね。ルーデルの冷静ともとれる発言も、さすが不死のルーデルと言ったところでしょうか。
あまりの素晴らしい実績を持つルーデルが戦死することを恐れたヒトラーとの逸話もあります。ヒトラーはルーデルに幾度となく地上勤務をするよう言っていましたが、彼はこれを全て拒否していました。
そしてあるとき、ルーデルに見合う勲章がなくなったためにヒトラーは実質彼のためだけに新しい勲章を作りました。その勲章を受章するときに、ルーデルとヒトラーはこのような会話を交わしました。
「君はもう十分に飛び、十分の功績をたてた。君の生命はわがドイツの青年ならびに君の経験のために保存されねばならぬ」
「総統、もし私が飛行大隊と行動を共にするのが許されないのでしたら、私は受賞と昇進とを辞退申し上げたいと存じます」
「よろしい、飛びたまえ」(自伝「急降下爆撃」より)
それでもなお、ヒトラーはルーデルに飛行禁止を命じましたが、懲りないルーデルは書類を偽造して出撃していました。ルーデル飛行禁止令が出されてから謎の撃墜報告が増え、こっそり出撃していることがバレてしまったルーデルはこう言い訳したそうです。
「全機一斉に突っ込んだためです」(自伝「急降下爆撃」より)
この二つの発言も、ルーデルの名言とされています。
そして終戦間際に投降したルーデルは連合軍の捕虜となりました。連合軍でも有名だったので、さまざまな質問、もとい尋問を受けたのですが、しつこく聞かれたのはスツーカにどのような改造をしているか、だったそうです。
ルーデルがスツーカ施した改造は「戦車の装甲をぶち抜けるように、37mm機関砲を外付けしてもらった」ことだけでした。低速な上に重くなるような改造をしていたので、連合軍の兵士たちはたいそう驚いたそうですが、ルーデルにとってはこれが普通でした。どのようにしてそのような機体で敵機から逃げ切っていたのでしょうか。
戦後、ルーデルは28歳年下の妻を娶りました。ルーデルは再婚で、この28歳年下の妻は後妻でしたが、とても仲睦まじかったそうです。
妻は当時21歳でしたので、ルーデルは49歳。この妻と再婚した5年後に脳卒中を起こしたそうです。しかしスポーツを楽しめるほどに回復したと言います。脅威の回復力ですね。不死のルーデルここに健在、と言ったところでしょうか。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の愛機
急降下爆撃機Ju87ユンカース【スツーカ】
スツーカはシュトゥーカとも呼ばれており、シュトゥルツカンプフルークツォイクの略です。第二次世界大戦のドイツ軍において使用された急降下爆撃機の愛称で、下降する際にはサイレンのような音を出し、その風切音はドイツ兵たちから「ジェリコのラッパ」と呼ばれていたそうです。
スツーカは頑丈なので重たく、低速だったそうで、防弾装備が貧弱だったので、制空権を握っている状態で攻撃するのが定石でした。
しかしそのような機体で快挙を成したルーデルは、特異だったと言えるでしょう。
戦闘機フォッケウルフFw190
フォッケウルフも第二次世界大戦においてドイツで使用されていた戦闘機で、メッサーシュミットと並ぶ主力機でした。愛称はヴュルガーで、百舌という意味だそうです。
日本にも輸入されたという記録が残っています。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の戦後
ルーデルは戦後、拘留はされたものの戦争犯罪者とはならず、釈放後にはその後の人生を大変謳歌いたしました。
1948年の6月に、ヘルバルト・バウアー(階級は少佐)、エルンスト・ニールマン(階級は大尉)と共にアルゼンチンに渡りました。実業家となったルーデルは、仕事だけでなく、趣味にも充実したそうです。
フェイチャイルド社の爆撃機A10の開発
ルーデルはアルゼンチンに渡った後に、アルゼンチン空軍の設立に大きく貢献しました。フォークランド戦争ではルーデルの教え子達が活躍し、イギリスの艦艇を沈めたそうです。さすがルーデルの教え子とも言うべきでしょうか、イギリス海軍兵たちは「低空飛行で攻撃してくる」と言っていたそうです。
そしてフェアチャイルド社に協力を求められ、A10という爆撃機の開発にも尽力しました。低速ではあるが、ローコストで何発撃たれても落ちずに、戦車は一発で吹き飛ばすことのできる戦闘力で兵士達からは大絶賛の爆撃機となり、開発後30年ほどたつ現在でも現役だそうです。
それだけでなく、2028年までの契約もしているのだとか。戦闘ヘリよりローコストで、戦闘機よりも対地攻撃の高い機体は、A10以外存在しないそうです。
スツーカに乗って輝かしい戦果を残し、急降下爆撃機とはなんたるかを知り尽くしたルーデルだからこそ、A10が最強の爆撃機となったのでしょう。
趣味は登山
スツーカに乗っての任務中に高射砲によって撃墜され右足を失ったルーデルですが、義足を使っていたので戦後はスポーツに登山にと楽しんでいたようです。
特に登山についての逸話が有名で、アンデス山脈にある標高6900mのユヤイヤコという山に登ったときのことです。ノイベルトという友人と共に登山を楽しんでいたルーデルですが、ノイベルトが滑落して死亡するという事故が起こりました。一度下山しノイベルトの遺体を発見すると、ノイベルトを担いで登山を再開したそうです。
そして「これからノイベルトはずっと、この山頂で眠るんだ」という名言を残しました。
葬儀も伝説に
不死の男と言わしめたルーデルも、1982年12月18日に亡くなります。その葬儀もさすがのルーデル、伝説の葬儀と言っても過言ではありません。
ルーデルの葬儀の際、西ドイツ空軍機2機が追悼飛行をしたのです。葬儀に参列した元軍人の一部がナチス式の敬礼をしたり、元ナチス党員やネオナチなどが葬儀に参列をしたり、葬儀の最中に戦時中の国家や軍歌が流されたりなど、大問題が起こったそうです。
ルーデルの葬儀で行われたという追悼飛行に関して、以下のような文言がネット上で流れています。
「あれは単なる訓練飛行である。下で誰かが葬式をしていた?知らんよ」
おそらく彼の自伝「急降下爆撃」で翻訳されているルーデルの口調を真似ての表現と思われます。不死の男ルーデルの葬儀は、伝説と言ってよいのではないかと思います。
不死の男ルーデル生存説
不死と言われるルーデルには、生存説があります。墓に眠っているのは別人で、不死の男ルーデルは今でも生きている、という説があるというのです。さすが不死の男ですね。ルーデルは1916年生まれですので、生きていたら102歳です。生きていてもおかしくはない年ではありますが、実際はどうなのでしょうか。
なお、ルーデルは元ナチスドイツ軍人のため、正確な墓所までは明らかにされていません。ドイツのドルンハウゼンという地域にあるということのみ判明しています。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の自伝
前述しておりますが、ルーデルは自伝も出しています。ドイツ語を英語に翻訳したものを、さらに日本語訳したものです。しかし翻訳されたルーデルの口調がかなり特徴的で、ルーデルは本当にこのように言っていたのだろうと思わせるような内容となっています。
特に印象的なのが「いやなこってす」「ようござんす」などです。現在では入手することが大変難しいと思いますが、もし興味があり、機会があれば一読することをお勧めします。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の名言
以下は有名とされている名言です。前述している名言も含め、自伝の「急降下爆撃」より参照しています。
ソ連軍から逃亡中、ソ連軍の軍用犬について「それにしても勘の鈍い軍用犬だ」
6週間の入院中ソ連軍の侵略の報告を聞いて「よし行こう、すぐ退院だ」
こっそり出撃していたことに対して「ちょっと試験飛行をしただけです」
自伝「急降下爆撃」より
片足を失って
「もう足がない。新しいスキーで丘を滑ることも、棒高跳びをすることも、みんなできない。が、それもいい。たとえ、足や腕を、あるいは命をなくしても、その犠牲によって祖国が危機から救われるなら、大して重要なことではない。ただ一つ大事なことは、この現在の危急存亡の時に際して、私が少なくとも数週間飛べないということだ」
自伝「急降下爆撃」より
アメリカ兵の捕虜になり、ナチ式敬礼をやめてほしいと通訳に言われたとき
「ここはドイツだ。英語が話せたって、ドイツ語以外はしゃべろうと思わない。(中略)ま、そんなことはどうでもいい、身体を洗わしてもらいたい。それから何か食べ物がほしい」
自伝「急降下爆撃」より
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の相棒
アルフレート・シャルノヴスキー
1941年9月23日に戦艦マラートを攻撃したときの後部機銃手で、ルーデルの大隊では最年少だったそうです。ソ連のキーロフ級巡洋艦「キーロフ」の攻撃命令が出された際、大隊長のステーン機が故障し、ルーデル機を代わりに出すことにしたので、ルーデル機にステーンとシャルノヴスキーが乗って出撃しました。
そして機体が操縦不能となったために、ステーンと共にシャルノヴスキーはキーロフに特攻して戦死しました。最終階級は伍長でした。
エルヴィン・ヘンシェル
ヘンシェルはシャルノヴスキーの後任の機銃手で、ルーデルとの付き合いの長い相棒です。ルーデルの信頼もあったのですが、新米兵士を救出する際にドニエストル川を横断し、氷点下近かった水温のために体力がもたずに沈み、ルーデルが救出したのですが溺死してしまいました。最終階級は兵長でした。
ロートマン
ロートマンはヘンシェルの後任の機銃手で、フルネームは不明とのことです。当時の階級は一等軍曹でした。元々はスツーカの整備兵でしたので、正式な機銃手ではありませんでした。この時期はどの部隊も機銃手を確保できる状態ではなかったので、仕方なくロートマンがルーデルの相棒となったそうです。
実戦で焦ってしまったことから、すぐ元の整備兵へと戻っています。最終階級は不明とのことです。
エルンスト・ガーデルマン
ルーデルの相棒として一番有名なのは、このガーデルマンです。元々は軍医で、スツーカドクトル(ドイツ語でドクターという意味)という呼び名があります。
階級が中尉だったころのルーデルと出会い、共にスポーツが好きということから仲良くなり、ルーデルと共に訓練を受けていたそうです。1941年の冬から後部機銃手となりましたが、このときはルーデル専属というわけではかったので、さまざまなパイロットの機銃手を引き受けていました。機銃手としての技術も素晴らしく、医者としても有能だったので、パイロットからは絶大な信頼を受けていたそうです。
1944年の5月にルーデルの相棒となり、1945年2月9日まで共に出撃したそうです。最終階級は少佐でした。
エルンスト・ニールマン
ガーデルマンの後任は、ニールマンでした。すでにベテランであったニールマンは、出撃回数600回を超えていたそうです。最後の出撃もルーデルと共にし、米軍で捕虜になった際も常にルーデルと行動を共にしていたそうです。最終階級は大尉でした。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】の上司及び同僚
エルンスト・ステーン
ルーデルが「真に偉大な人間である」と評する、ルーデルの恩師に当たる上司でした。隊内でも人望のある人物でしたが、キーロフ攻撃の際にシャルノヴスキーと共に戦死しました。最終階級は大尉でした。
フリードリッヒ・フリドリン・ベッカー
ルーデルの同僚であり、参謀でした。親友でもあり、「フリドリン」という愛称で親しまれていました。1945年の4月に副司令にまで昇進しています。
終戦まで生き延びましたが、その後チェコで戦死しました。最終階級は少佐でした。
ヘルムート・フィッケル
ルーデルの副官で、僚機としても出撃したことのあるパイロットです。フィッケルは3回撃墜されるものの、負傷することはなく、その内2回はルーデルが救出しています。戦後も生き延び、2005年に亡くなっています。最終階級は中尉でした。
伝説の軍人【ハンス・ウルリッヒ・ルーデル】は実在した
不死と言われた伝説の軍人「ハンス・ウルリッヒ・ルーデル」の名言や伝説の葬儀、逸話や妻を娶った戦後の生活などのご紹介をいたしましたが、いかがでしたか?
素晴らしい戦績もさることながら、現在も逸話や名言が語り継がれるほどの絶大な人気を誇るのは、おそらく彼の人柄もあるのではないかと推測します。相棒や同僚などのエピソードを見ると、ルーデルの人柄が垣間見える気がします。
不死の男、ハンス・ウルリッヒ・ルーデルは実在しました。きっと彼の業績は今後も語り継がれていくことでしょう。
出典
ルーデルの自伝「急降下爆撃」を参照いたしました。