2021年10月05日公開
2021年10月05日更新
江戸時代の火消しは破壊が仕事!その驚くべき方法と実態とは?
江戸時代の消防と言えば火消しのめ組で有名だと思いますが、火消しの方法を知っていますか? 今の時代のような機械もなかったので江戸時代ならではの破壊を通して消防を行っていました。 今回はそのような破壊で火消しをしていた実態や方法についてご紹介したいと思います。
目次
- 1江戸時代の消防団「火消し」は消火のため破壊してたのは本当?
- 2江戸時代には大火事が多かった「三大大火」
- 3江戸時代でも今の消防隊にあたる消防団「火消し」の結成!
- 4江戸時代での火消し技術!消防団「火消し」の技術とは?
- 5消防団でも特に活躍していたのは火消しは「町火消」
- 6消防団・町火消「いろは四十八組」や「深川本所十六組」の設立
- 7江戸時代の消防団「火消し」が使っていた纏や道具とは?
- 8江戸時代の消防団「火消し」が使用していた鐘の意味は?
- 9江戸時代の消防団「火消し」家を破壊していた?破壊理由とは?
- 10江戸時代では火災の根元を破壊で止める!破壊の必要と水不足!
- 11江戸時代では多くの死者が!破壊が間に合わずに亡くなる人も
- 12家の家主は破壊を前提とした家作りを!破壊しやすい住宅に
- 13なぜ江戸時代は火事が多かった?
- 14江戸時代では木造住宅である事から火の回りが早かった
- 15「まとめ」江戸時代の消防団「火消し」の破壊は命懸け
江戸時代の消防団「火消し」は消火のため破壊してたのは本当?
江戸時代の消火方法としてよく聞く破壊とは?
皆さんは江戸時代の頃の火事はどのように火消しを行っていたかご存知ですか?
高校などの歴史の時間でぼんやり習う方もいると思いますが、江戸時代の頃は「火消し」という消防団が存在していたとされています。
もちろん江戸時代当時では、いまのように車が走っていたり、最先端の機械などが存在しないので、消防団「火消し」の手によって火事が起きた場合は鎮火をしていたのですが、実はその鎮火・消火の方法が家を壊していたということが言われているのです。
今回はそのような歴史上の話、江戸時代の消防組織「火消し」についてご紹介したいと思います。
江戸時代には大火事が多かった「三大大火」
江戸時代に猛威を振るった「三大大火」
江戸時代以外にも、どの時代でも火を使う文化があれば当然火事が起こる事はありえるのですが、江戸では歴史上でも有名な「三大大火」が起こったとされています。
この三大大火は「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「丙寅の大火」であると言われています。
三大大火は非常に有名なのですが、実はこの三大大火以外にも江戸の頃では多く大火があったとされ、数年に一度は大火があったと言われているほどで、常に火事の危険性に苦労していたとされてるのです。
江戸幕府はこのような大火を含め、火事が頻発することから火消しに力を入れ始め、火消し専用の組織を作りました。
日本史上最悪の大火「明暦の大火」
日本の歴史上の中で最も最悪と言われた大火が先ほど少しご紹介した「明暦の大火」です。
明暦の大火は明暦3年の1月18日から20日までの3日間にも及ぶ大火だったとされています。
この明暦の大火による被害は江戸の半分近くを焼き払ってしまうほどの大火事で、死者はおよそ3万人から10万人近くにも及んだと文献では記されています。
この「明暦の大火」は別名では「振袖火事や丸山火事」とも呼ばれることがあるのですが、火の元が一か所でなく、複数元から火が上がり、一つ目の火元を消化できて落ち着こうとしたら違うところでまた火が上がるという連鎖的に起きたことで大火に繋がったと言われています。
このような明暦の大火の経験を得て、江戸幕府は消火方法に対して真剣に考えるようになり、消防組織「火消し」を作るように決めたとされています。
江戸時代でも今の消防隊にあたる消防団「火消し」の結成!
火消しの設立で消化をスムーズに!
江戸の頃では様々な大火が起きたとご紹介しましたが、実際に消防組織で有名なめ組などの「火消し」が設立されたのは1718年となっています。
それまでは大名火消や定火消と呼ばれる様な技術を使われ、武家を始めとした偉い人が招集され、火消しに努めたとされています。
この時でも組織編成などは存在し、分担しながら消防に当たっています。
この江戸の大名火消や定火消でも依然と比べれば断然早く火消しを行うことができたのですが、さらに火消しが効率よく行えないか、消防に努めることはできないかということで出来たのが江戸の「町火消」と言われています。
江戸時代での火消し技術!消防団「火消し」の技術とは?
「大名火消」と「定火消」と「町火消」
次は実際に江戸時代の頃に行われていた消火技術や組織についてご紹介したいと思います。
【大名火消】
江戸の大名火消は1629年の頃に消防・火消しに対する組織が組まれたことが始まりとされています。
大名16家を招集し、4組の構成経て組織を結成し、消防・消火に勤めていた方法とされています。
【定火消】
江戸の定火消は、大名火消で実際に行動して大火を鎮めた経験などを配慮してさらに迅速な対応が出来るようにした火消し方法です。
具体的な方法に言うと、大名火消の時のようにさらに火消し職人を選抜し、火消屋敷を与えたとしています。
この火消屋敷を与えられた組織、人達は火消しを本分とし、江戸の土地10か所を担当し、消防に当たっています。
定火消の時に「臥煙(がえん)」と呼ばれる組織も結成されました。
江戸の臥煙の人たちは、火事が起きた緊急時などに起こされて駆け付けるような消防隊員みたいな役割で、常に法被一枚にふんどし一丁の格好をしていたとされています。
さらに、法被の下には刺青を入れている人が多く、とても目立ちました。
消防団でも特に活躍していたのは火消しは「町火消」
町火消による迅速な対応
大名火消と定火消しをご紹介しましたが、特に活躍したとされるのが「町火消」という方法でした。
【町火消】
江戸時代の町火消とは1718年に組織が結成されたのですが、自分らが住んでいる町・土地は自分たちで守ろうという事から江戸の街の人たちで結成されたもので、費用なども江戸の町の人達自ら出していた方法とされています。
この町火消で特に有名なのが「いろは四十八組」と「深川本所十六組」でその中で「め組」はある事件を起こしたことから歴史上でも有名となっています。
この町火消の人として選ばれた住民の人たちは、血気盛んで大火に対しても恐れず立ち向かう事から、当時では憧れの的となって多くの子どもたちが町火消しになろうと頑張ったと言われています。
消防団・町火消「いろは四十八組」や「深川本所十六組」の設立
「いろは四十八組」と「深川本所十六組」設立の意味
「いろは四十八組」と「深川本所十六組」とは?
「いろは四十八組」と「深川本所十六組」はご存知の方も多いと思いますが、特に有名なのが「いろは四十八組」の「め組」です。
め組は相撲の力士と揉め事を起こした「め組の喧嘩」が歴史上でも有名ですが、「いろは四十八組」と「深川本所十六組」は自分らのグループ組織を結成し、纏に自分らのグループ組織の印を描いて消火活動・消防活動に努めたとされています。
このように「いろは四十八組」や「深川本所十六組」をなぜ結成したのかというと、結成した意味とされているのが自分らの担当は自分らの所で守ろうという意識と、火消しを行った際に、最後に火消しを出来た所がその家の屋根に自分らの印を象った纏を残し、纏がある組織に賞金が出されたためと言われています。
梯子乗りしてるの、鳶職の人たちらしい。
— さり🍻シーズンオフ (@sari_svg) July 30, 2017
消防の人がやるイメージだったからググったら、元々江戸時代の火消しって鳶職人がやってたんだって!!!驚きだね!
喧嘩問題を起こした!?「いろは四十八組」のめ組
火消し「め組」vs力士
先ほど少しご紹介しましたが、め組の喧嘩は歴史上にも残る喧嘩とされています。
というのも、話自体はよくありそうな話なのですが、め組の人が相撲場を無銭で見物しようとしていたことが最初の発端で、それを相撲の力士が木戸番の見方をしたことにより、め組の人が一度は引き下がったものの、違う場所でその時の力士と再会し、卑屈からも大衆の前で力士の事をやじった事から喧嘩に発展したと言われています。
この時に始まった喧嘩は相撲の力士仲間も応戦し、火消しである火消し仲間も応戦したことから大きな喧嘩へと発展し、歴史上でも有名となっています。
そのため、今もなお歌舞伎役者などがこの「め組の喧嘩」を題材とした芸を披露するほどで、このめ組の喧嘩について知っている人が多いです。
江戸時代、火消しの「め組」と力士が、この近くの神社で大喧嘩した話が、平成の今にも伝わっている。
— ぴょる吉・ゴールディ・Y (@pyorukiti) August 28, 2017
って、どんだけすごいケンカだったんだ?(笑) pic.twitter.com/UBcvNwj3hf
江戸時代の消防団「火消し」が使っていた纏や道具とは?
消防団「火消し」の花形「纏持ち」とは?
纏持ちはなぜ花形と言われた?
江戸の消防団である「火消し」は町の人からも憧れを持たれるように、大変人気があったのですが、その中でも特に人気があったとされているのが、「纏持ち」でした。
江戸の纏持ちとはその名の通り、「纏を持つ者」で、この纏持ちの人は選ばれた者だけがなれるとされていました。
この花形とも言われていた纏持ちは何をするのかというと、主に消火活動を行ったりする人物ではなく、火が上がっている場所を知らせる人物であり、火が消えるまで纏を振るい、早く消えることを願ったとされています。
そのため、火が上がったら他の誰よりも早く駆け付けて家の屋根に上り、纏を高く掲げて知らせていました。
ただ、この纏持ちは危険が伴い、例え自分の立っている家が燃えたとしてもその場が火事の根源でもあるので離れずに多くの人が火に耐えながら纏を振るい続けたとされています。
このことからも纏持ちは勇敢な人物として花形として憧れを持たれることが多かったと言われています。
纏いは、江戸時代に江戸火消しが行列の先頭に立ったのが最初なんだって。 pic.twitter.com/mYBNqcbg7i
— アキ❖ 低浮上気味 (@az_allargando) October 12, 2017
消防団「火消し」が使用していた道具
次は実際に江戸の消防団である「火消し」が消火の際に使用していた道具をご紹介したいと思います。
現在も江戸の消防団の博物館などで飾っている所もあるのですが、実は古くから受け継いで所有している人も存在し、現在ではネット上でも出回っていることがあります。
気になる方はぜひ一度ネット上で調べて購入してみて頂けたらと思います。
鳶口(とびくち)
まず最初にご紹介するのが鳶口です。
この鳶口という道具は画像の上の2つがそうなのですが、道具の画像を見て頂いてもわかるように上に先端には鋭い切っ先が付いているようになっています。
これは何故かというと、鳶口は天井や屋根を壊す際に使用する道具で、先をとがらせることによって天井や屋根の気を剥がしやすいように先をとがらせた意味があるとされている道具です。
大刺又
次にご紹介するのが大刺又です。
道具の画像は少し見えずらいのですが、一番上に飾られている長い棒が大刺又です。
大刺又という道具は先端部分は「Yの字」のようになっており、火が上がっている家の壁などを壊しやすいようにするためこのような形になったとされています。
実は地図上でも現在消防署などはYの字のような形だと思いますが、この形は大刺又からきているとも言われています。
纏(まとい)
次にご紹介するのは纏です。
纏は先ほども使う意味はご紹介しているのですが、自分らの組織の目印の意味としても使われるのですが、火の元を示す意味の道具としても使われ、組によっては印はもちろん形が多く異なり、様々な印や形を見ることができます。
現在もこの纏はお祭りなどで使用されることが多く、現在もしっかりと綺麗な状態で残っている場合があります。
この纏の印の意味は、戦国時代の時に味方や敵を区別する際に使っていた旗印をモチーフとしたとされ、戦がなくなったことから、印が味方や敵ではなく火の元を表す印として使われるようになったと言われています。
半鐘
次にご紹介するのは「半鐘」です。
半鐘は見て頂いてもわかるように鐘で、纏は火の場所を示す意味でしたが、こちらの半鐘は火事が起きたことを知らせる意味の道具として使われていました。
半鐘を鳴らす回数によって意味が大きく異なったと言われています。
武家の火消装束
次にご紹介するのは道具ではないのですが、江戸の武家の火消装束です。
江戸時代の時代劇などでもこのような服装は見たことがあると思うのですが、火事が起きた際に自分にも危険があまり及ばないような身軽なうえに笠を被るスタイルとなっています。
消防団「火消し」の掛け声は?
「火消し」はどのような掛け声だった?
何事にも協力して行う際には、掛け声などを掛け合って協力し合うことが多いのですが、江戸時代の火事の現場でも消化を行う際には掛け声を共に掛け合って団結していたとされています。
掛け声の中でも特に有名な掛け声は「木遣歌」とされ、この掛け声は火消しの間、鳶職の間で流行ったとされています。
特に江戸時代の頃の火消し職人たちは、鳶職の人たちを中心として構成されたため、この掛け声が必然的に広がったのも納得できます。
この掛け声の際には、大牧運びだしたり、大きな道具を運んだりするときの掛け声として使われることが多く、この掛け声を元に一致団結して荷物を運んだとされています。
木遣歌の掛け声は江戸消防記念会で保存されているという事なので興味がある方は調べて頂けたらと思います。
火消しの人は刺青を入れている人が多かった!?
火消しと刺青の関係・意味
江戸の火消しをする人は実は多くの人が刺青を体に刻んでいたとされています。
これは何故かというと、臥煙の所でも少しご紹介したのですが、江戸時代の火消しの人は服などに燃え移ったりしたら危険なため、法被やふんどし一丁の人が多かったとされています。
しかし、法被やふんどしだけでは他の人から見てもあまり美しい物だけでなく、自分を彩るのは肉体美だけとなっていました。
そのため、江戸の火消しの人たちは自らの体に刺青を入れることによって刺青を服みたいにして表し、自分の個性を出していたとのだと思われます。
このことからもわかるように、江戸の火消しの人たちが刺青を体に入れる理由は一種のファッションであり、刺青で個性を出していたのです。
ちなみに江戸時代の火消しの人だけが刺青を入れているのではなく、江戸時代の鳶職の人も刺青を入れていたり、駕籠かき(かごかき)の人たちも同じような理由で刺青を入れていたと言われています。
いまは刺青そこまで悪いやつでもないし、歴史的には江戸時代の火消しや鳶とかみたいな警備役側が華として入れてたんだけど、一体どの歴史で物騒になったのかが知りたい。
— Ny オリジナル漫画執筆に夢中 (@N84309998) August 3, 2017
江戸時代の消防団「火消し」が使用していた鐘の意味は?
鐘の合図は火元の近さを知らせる
次にご紹介するのは火災が発生した印、鐘の意味です。
江戸の火消しの鐘の鳴らし方は複数あるとされ、鐘の鳴らす音で火事が起きている場所までの距離を大まかに知らせたとしています。
鐘を鳴らす音が1打の場合は、火事が起きている場所までは遠く、2打では火消しの人たちが消火に向かうよう指示する合図、乱打では火元が近いということを表したとされています。
江戸時代の消防団「火消し」家を破壊していた?破壊理由とは?
江戸時代は破壊で火元を食い止めていた?
破壊で火元を食い止めていたって本当?
次にご紹介するのは江戸時代の頃に消化していた方法です。
多くの方が耳にしたことがあると思いますが、江戸時代の頃には消火方法として破壊を取り入れていました。
現在ではあまりこのような事が当然なく、水を使って水圧などを利用して、消火に当たるのですが、もちろん江戸時代の頃にはそのような機会がない上に、道具もなかったとされています。
そのため、破壊を行うことで消火を行っていたのは事実です。
家を破壊していた理由とは?
家の破壊理由と意味
なぜ江戸時代の頃には火消しを行う際に家を壊していたのかというと、家を破壊していた理由は水があまり使えなかったことと、家を破壊することによって火の回りを絶つことができ、最も早いとされていたためです。
もちろん昔の話なので、現在の住宅のように鉄筋コンクリートなどは使用されておらず、軽鉄なども存在しなかったため木造住宅である事がほとんどでした。
そのため、他の家へと火が飛び火しないように消すためには、火が上がっている家を破壊していくことが最善とされたのです。
雑学bot。江戸時代の火消しの仕事は火を消すことより燃え移らないように家を壊すこと。ちなみにいろは四十八組には「へ」「ら」「ひ」「ん」組はない
— JACK bot (@JACK_in_the_BOT) October 11, 2017
江戸時代では火災の根元を破壊で止める!破壊の必要と水不足!
少しの水では火を止められず!仕方なく破壊に…。
江戸時代でもやはり水は貴重だった!
家を破壊していた理由は水にも原因がありました。
当時の江戸時代ではもちろん現在のようなポンプが存在せず、バケツにいれた場合でもはしごリレーのようなことしかできず、水ではなかなか消火をするのは難しいとされていました。
さらに江戸時代の頃では水は大変貴重とされ、水を使っても上手に消化が出来ない事から水を使用しての消火はもったいないだけとされていました。
このことからも家を破壊して消火をすることが一番効率が良かったのです。
江戸時代では多くの死者が!破壊が間に合わずに亡くなる人も
火事に巻き込まれる人も多くいた
江戸時代の時は破壊を行って消火活動を行っていることはご紹介しましたが、やはり家を壊すという事は非常に大変であり、いまと比べるとかなりの時間がかかったとされています。
江戸時代の頃一応自宅を壊しやすいような構造で家を建てている人が多かったのですが、それでも簡単に壊れるような家だと住宅の意味をなさないためある程度の強度はやはり持っていました。
そのため、火事が起こった際でも一生懸命家を破壊しても間に合わず、なくなる人も多かったとされています。
家の家主は破壊を前提とした家作りを!破壊しやすい住宅に
破壊しやすいような構造
火事が起きた際はやはり壊さないといけないため、すぐに壊れやすいように、江戸時代の頃は家の家主の人も破壊されることを前提にした家作りをしていた人が多いとされています。
これをすることによって、万が一自分の家で火災が起きたときもすぐに火の元を絶ちやすく、壊れやすい位置を印づけておくことで迅速に対応することができるようになったと言われています。
そのため、江戸時代の頃は家作りの段階から消防の事を考えていたことが分かります。
なぜ江戸時代は火事が多かった?
密接した家と家
次に江戸時代はなぜ火事が多かったのか?についてですが、これは先ほどの家の構造が大きく関わっていると言われています。
というのも、先ほどもご紹介したように、江戸時代では木造住宅がほとんどで、一度火事が起きてしまうと家を壊すのに時間がかかるだけでなく、冬場など乾燥した状態で風が強かった場合には火が他にも移りやすかったとされています。
そのため、一度火事が起きてしまうと周りにも火の粉が飛んでしまい、至る所で火災が起きたと言われています。
江戸時代では木造住宅である事から火の回りが早かった
燃えやすいのが大きな問題に
江戸時代では木造住宅である事が分かったと思うのですが、当時の江戸時代の住宅は非常に燃えやすかったとされています。
というのも、ご存知ない方もいると思いますが、江戸時代の頃では住宅と住宅の距離が大変狭く、ほとんどくっついているのではと言っても過言ではないのです。
そのため、万が一火災が起きた際に、家を破壊しやすい印めがけて破壊をしても隣の家に燃え移りやすく、それが連鎖してその場を中心とした一体の家がよく燃えるようになっていたとされています。
このようなことから火消し職人は命を懸けることが多く、命を懸けて立ち向かっていたとされています。
「まとめ」江戸時代の消防団「火消し」の破壊は命懸け
今回は江戸時代の火消しについてご紹介しましたがいかがでしょうか。
今では想像もつかないようなことが昔ではよく行われており、原点では多くの人が果敢な状況に立ち向かっていたことが分かると思います。
刺青をしてカッコいいと人気があったのもそうですが、やはり火消しが人気があったのは過酷な状況にも立ち向かっていく姿がかっこよかったために人気だったことがうかがえると思います。