特攻隊員の遺書…本音が隠された最後の手紙に泣ける【写真あり】

特攻隊員の遺書・手紙を読んだことはありますか?日本の戦争の歴史を語る上で絶対に外せないのが、特攻隊の存在です。自らの命を引き換えに相手の軍艦を落とす作戦は、大変な勇気を必要とする行為でした。今回はそんな特攻隊員の遺書・手紙をまとめていきます。

特攻隊員の遺書…本音が隠された最後の手紙に泣ける【写真あり】のイメージ

目次

  1. 1特攻隊員の遺書・手紙が泣けすぎる…
  2. 2特攻隊員「穴沢利夫」の婚約者への遺書・手紙
  3. 3「お母さん」と呼んでみたかった特攻隊員の遺書・手紙
  4. 4日の丸を背負った日本人の心を感じる遺書・手紙
  5. 5お母さんを悲しませたくない特攻隊員の遺書・手紙
  6. 6特攻隊「大石伍丁」妹への遺書・手紙
  7. 7娘に書いた特攻隊員の遺書・手紙
  8. 8特攻隊員の晴れ晴れとした遺書・手紙
  9. 9特攻隊員の泣ける本音が書かれた遺書・手紙
  10. 10特攻隊員の遺書・手紙は母への想いが大きい
  11. 11神風特別攻撃隊の歴史
  12. 12特攻隊への海外の反応は?
  13. 13特攻隊の遺書・手紙のTwitterでの反応は?
  14. 14まとめ~特攻隊の遺書から学ぼう~

特攻隊員の遺書・手紙が泣けすぎる…

死ぬと分かって攻撃する神風特別攻撃隊の隊員達の遺書・手紙が泣けるものばかりです。
ある程度、日本の戦争の歴史を勉強した日本人の方なら誰もが知っている太平洋戦争での「特攻隊」の存在。
正式名称は「神風特別攻撃隊」と言います。

とってもかっこいい部隊名ではありますが、その内容は自分の命と引き換えに相手の軍艦を壊すというもの。
つまり、死が確定している攻撃です。

そんな恐ろしい行為をする隊員達ですので、特攻する前に隊員達は遺書・手紙を残しました。
その内容は母にあてたものや恋人、娘や弟など様々ありましたが、どれも読んでいて泣ける手紙ばかりです。

今回はそんな遺書・手紙や、写真などを紹介していきます。

特攻隊員「穴沢利夫」の婚約者への遺書・手紙

戦死しているので、階級が上がり最後は大尉となっています。
特攻隊員「穴沢利夫」さんの、婚約者・恋人へあてた手紙を最初に紹介します。
因みに「穴沢利夫」さんは最終的に大尉となっていますが、多分特攻するまでは少尉だったはずです。

というのも、戦死をすると二階級特進する仕組みになっているからです。
亡くなると格が上がるというのも、戦争をする上で、精神的に大切だったのでしょうね。

手紙の内容は、過去を辿りたくない、未来を見てほしいと書いてありますね。恋人の未来を願う気持ちに涙してしまいます。
また、ちょっぴり欲を言ってみたところが、なんとも愛らしいですよね。

二人で力を合わせて努めて来たが終に実を結ばずに終わった。 希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていた”時期を失する”ということが実現して了ったのである。 去月10日,楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが,帰隊直後,わが隊を直接取り巻く情況は急転した。 発信は当分禁止された。転々処を変えつつ多忙の毎日を送った。 そして今,晴れの出撃の日を迎えたのである。 便りを書きたい,書くことはうんとある。 然しそのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。 あなたのご両親様,兄様,姉様,妹様,弟様,みんないい人でした。 至らぬ自分にかけて下さった御親切,全く月並の御礼の言葉では済み切れぬけれど「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。   今は徒に過去における長い交際のあとをたどりたくない。 問題は今後にあるのだから。 常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれること,信ずる。 ただしそれとは別個に,婚約をしてあった男性として,散ってゆく男性として,女性であるあなたに少し言って征きたい。 あなたの幸を希う以外に何物もない。 徒に過去の小義に拘る勿れ。 あなたは過去に生きるのではない。 勇気をもって過去を忘れ,将来に新活面を見出す事。 あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ。 穴沢は現実の世界にはもう存在しない。 極めて抽象的に流れたかも知れぬが,将来生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様,自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。 純客観的な立場に立って言うのである。 当地は既に桜も散り果てた。 今更何を言うかと自分でも考えるが,ちょっぴり慾を言ってみたい。   1.読みたい本 「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」   2.観たい画 ラファエル「聖母子像」,芳崖「非母観音」   3.智恵子 会いたい,話したい,無性に。 今後は明るく朗らかに。 自分も負けず朗らかに笑って征く。   昭和20年4月12日 .      .      利夫   智恵子様

「お母さん」と呼んでみたかった特攻隊員の遺書・手紙

出典: https://ameblo.jp

お母さんと呼びたかった、18歳の特攻隊員の手紙です。
こちらは18歳で特攻隊員として亡くなった方の遺書です。
写真を見る限り、勇敢そうな青年ですよね。

手紙にはお母さんと呼べなかった事の後悔と、最後にお母さんと呼んだ内容が書いてあります。
お母さんはこの遺書・手紙を見てどんな事を思ったでしょうか。
戦争の悲しさをひしひしと感じますね。

母上様御元気ですか 永い間本当に有難うございました 我六歳の時より育て下されし母 継母とは言え世の此の種の母にある如き 不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし母 有難い母 尊い母 俺は幸福であった ついに最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう 母上お許し下さい さぞ淋しかったでしょう 今こそ大声で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さんと

日の丸を背負った日本人の心を感じる遺書・手紙

誇り高き神風特別攻撃隊の精神を感じます。
特攻隊員として亡くなった方々の遺書には、恋人への想いよりも、お母さんへの遺書・手紙が多い様子です。
というのも、そもそも恋人がいたのかどうかということが大きいですよね。
特攻隊員は若い隊員ばかりですので、まだ恋人がいなかったのかもしれません。
また、戦争に行く前に、死ぬと分かっているから顔も知らぬ女性と結婚して一晩を過ごすという事も多かったようです。
当時の状況が分かる話しですよね。

お父さんお母さん大変お世話になりました。之といふ御恩返し出来ず残念ですが、正敏は必ず立派に任務を達成致します故ご安心して下さい。正敏、今日迄幸福すぎていたのに、その上こんな任務を頂き実に幸せです

お母さんを悲しませたくない特攻隊員の遺書・手紙

特攻隊員の遺書はやはりお母さんの話題が多い様子です。
特攻隊員になるのは若い男性ですから、やはり母親だ大好きなのでしょう。

ずっと愛してくれた母親に会えなくなる悲しみを抱きつつも、母親も含め、日本人を守る為に戦った特攻隊員達には頭が上がりません。
自分の家の上空を通ると書いてありますが、無事に通れたでしょうか。

『僕はもう、お母さんの顔を見られなくなるかもしれない。お母さん、良く顔を見せて下さい。しかし、僕は何もカタミを残したくないんです。十年も二十年も過ぎてからカタミを見てお母さんを泣かせるからです。お母さん、僕が郡山を去る日、自分の家の上空を飛びます。それが、僕の別れの挨拶です。』

特攻隊「大石伍丁」妹への遺書・手紙

出典: https://ameblo.jp

こちらの特攻隊員の遺書・手紙は、お母さんではなく妹へ宛てた遺書です。
まず最初に、まだ特攻する前の手紙を紹介します。

妹からの手紙が来て、とっても喜んでいるのが目に浮かぶ手紙ですね。
お金を神棚に飾っているなんて、とても可愛い妹です。
貧しい時代でしたから、妹が問題なく食べられるようにお兄さんも気遣っていたことでしょう。

『静ちやん お便りありがたう。 何べんも何べんも読みました。 お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。 神だな(棚)などに供へなくてもよいから、 必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。 兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、 これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月送ります。 では元気で、おじさん、おばさんによろしく。』

次に出撃前の手紙です。
おわかれの時が来る事を、妹は分かっていたのでしょうか。
このお手紙を見た頃にはもう亡くなっているとのことで、とても悲しんだことでしょう。

両親もいない状態で妹を一人にしてしまう怖さを想像すると、ある意味恋人を残すよりも不安だったのかもしれません。
兄さんの形見をお金に変えて生きろとありますが、妹はお金に変えたでしょうか。

『なつかしい静(せい)ちゃん! おわかれの時がきました。 兄ちゃんはいよいよ出げきします。 この手紙がとどくころは、沖なわの海に散っています。 思いがけない父、母の死で、幼い静ちゃんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。 兄ちゃんのかたみとして静ちゃんの名であずけていたゆうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちゃんが女学校に上がるときにつかって下さい。 時計と軍刀も送ります。 これも木下のおじさんにたのんで、 売ってお金にかえなさい。 兄ちゃんのかたみなどより、これからの 静ちゃんの人生のほうが大じなのです。 もうプロペラがまわっています。 さあ、出げきです。 では兄ちゃんは征きます。 泣くなよ静ちゃん。 がんばれ!』

娘に書いた特攻隊員の遺書・手紙

植村眞久 海軍大尉
享年25才
こちらの特攻隊員の遺書・手紙は幼い娘に宛てたものです。
幼い娘が遊んでいた人形をお守りにして特攻したとのことで、娘への強い想いを感じますね。

娘の幸せを見届けられない事を悲しみつつも、常に娘を守ると書いてあります。
大人になった素子さんは、父の愛を感じたことでしょうね。

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入ったこともありました。素子が大きくなって私のことが知りたい時は、お前のお母さん、住代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。私の写真帳も、お前の為に家に残してあります。  素子といふ名前は私がつけたのです。素直な心のやさしい、思ひやりの深い人になるやうにと思ってお父様が考へたのです。 私はお前が大きくなって、立派な花嫁さんになって、仕合せになったのをみとどけたいのですが、若しお前が私を見知らぬまゝ死んでしまっても決して悲しんではなりません。 お前が大きくなって、父に会いたい時は九段へいらっしゃい。そして心に深く念ずれぱ、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちゃんを見ると眞久さんに会っている様な気がするとよく申されていた。 またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がって下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあっても親なし児などと思ってはなりません。父は常に素子の身辺を護って居ります。 優しくて人に可愛がられる人になって下さい。お前が大きくなって私の事を考へ始めた時に、この便りを読んで貰ひなさい。 昭和十九年○月吉日父 植村素子ヘ 追伸、 素子が生まれた時おもちゃにしていた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。 だから素子はお父さんと一緒にいたわけです。素子が知らずにいると困りますから教へて上げます。

特攻隊員の晴れ晴れとした遺書・手紙

小川清 海軍中尉
死没 1945年5月11日(満22歳没)
22歳にして亡くなった特攻隊員の晴れ晴れとした遺書です。
感謝の念で一杯、幸福だったこと、親に恩返しをしたいことなどが綴られています。

淡々と出撃すると書いてありますが、内心は分かりません。
しかし、覚悟を決めている雰囲気はひしひしと伝わりますね。

22歳の前途ある若者が、戦争で亡くなる悲しさを、現代に生きる私たちは覚えておかなければならないと思わされます。

お父さんお母さん。清も立派な特別攻撃隊員として出撃する事になりました。 思えば二十有余年の間、父母のお手の中に育った事を考えると、感謝の念で一杯です。全く自分程幸福な生活をすごした者は他に無いと信じ、この御恩を君と父に返す覚悟です。 あの悠々たる白雲の間を超えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大儀に生きる光栄の日は今を残してありません。父母様もこの私の為に喜んで下さい。 殊に母上様には御健康に注意なされお暮し下さる様、なお又、皆々様の御繁栄を祈ります。清は靖国神社に居ると共に、何時も何時も父母上様の周囲で幸福を祈りつつ暮らしております。 清は微笑んで征きます。出撃の日も、そして永遠に。

特攻隊員の泣ける本音が書かれた遺書・手紙

林市造 
昭和20年4月12日没 享年23歳
こちらは今までの手紙とは少し雰囲気の違う、長文で書かれた手紙です。
その内容はお母さんへ宛てたもので、お母さんを「母チャン」と呼んでいるところに涙してしまいます。

最後の最後に、長文になったことに書き直すか考えたふしが見られます。
しかし、書き直すのもめんどうだからこのままでとした所に、リアルさを感じますね。

お母さんの基で暮らしたいこと。お母さんへの感謝。お母さんへのお願い事など、お母さんへの事で一杯の手紙です。

お母さん、とうとう悲しい便りをださねばならないときがきました。 親思う心にまさる親心 今日のおとずれ何ときくらむ この歌がしみじみと思われます。 ほんとに私は幸福だったのです。 我ままばかりとおしましたね。 けれどもあれも私の甘え心だと思って許して下さいね。 晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思うと泣けてきます。 母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思うと、何も喜ばせることが出来ずに、安心させることもできず死んでゆくのがつらいのです。 私は至らぬものですが、私を母チャンに諦めてくれ、ということは、立派に死んだと喜んで下さいということはとてもできません。けど余りこんなことは云いますまい。 母チャンは私の気持をよくしって居られるのですから。 婚約その他の話、二回目にお手紙いただいたときはもうわかって居たのですがどうしてもことわることができませんでした。 又私もまだ母チャンに甘えたかったのです。 この頃の手紙ほどうれしかったものはなかったです。一度会ってしみじみと話したかったのですが。 この手紙は出撃を明後日にひかえてかいています。 ひょっとすると博多の上をとおるかもしれないのでたのしみにしています。かげながらお別れしようと思って。 千代子姉さんにもお会い出来ず、お礼いいたかったのですが残念です。 私が高校をうけるときの私の家のものの気づかいが宮崎町の家と共に思い出されて来ます。 母チャン、母チャンが私にこうせよと云われた事に反対して、とうとうここまで来てしまいました。 私として希望どおりで嬉しいと思いたいのですが、母ちゃんのいわれる様にした方がよかったかなあとも思います。 でも私は技量抜群として選ばれるのですからよろこんで下さい。 私達ぐらいの飛行時間で第一線に出るなんてほんとは出来ないのです。 選ばれた者の中でも特に同じ学生を一人ひっぱってゆくようにされて光栄なのです。 私が死んでも満喜雄さんが居ますしお母さんにとっては私の方が大事かも知れませんが一般的に見たら満喜雄さんも事をなし得る点に於い絶対にひけをとらない人です。 千代子姉さん博子姉さんもおられます。 たのもしい孫も居るではありませんか。 私もいつも傍に居ますから、楽しく送って下さい。 お母さんが楽しまれることは私がたのしむことです。 お母さんが悲しまれると私も悲しくなります。 みんなと一緒にたのしくくらして下さい。 お母さん、私は男です。 日本に生まれて男はみんな国を負うて死んでゆく男です。 有難いことに、お母さん、お母さんは私を立派な男に生んで育てて下さいました。 情熱を人一倍にさずけて下さいました。 お母さんのつくって下さいました私は、この秋には敵の中に飛びこんでゆくより外に手をしらないのです。 立派に敵の空母をしずめてみせます。 人に威張って下さい。 大分気を張ってかきましたが、私がうけた学問も私が正しい時にかく感ずるのだと教えています。 ともすればずるい考えに、お母さんの傍にかえりたいという考えにさそわれるのですけど、これはいけない事なのです。 洗礼をうけた時、私は「死ね」といわれましたね。 アメリカの弾にあたって死ぬより前に汝を救うものの御手によりて殺すのだといわれましたが、これを私は思い出して居ります。 すべてが神様の御手にあるのです。 神様の下にある私達には、この世の生死は問題になりませんね。 イエス様もみこころのままになしたまえとお祈りになったのですね。 私はこの頃毎日聖書をよんでいます。 よんでいると、お母さんの近くに居る気持がするからです。 私は聖書と賛美歌と飛行機につんでつっこみます。 それから校長先生からいただいたミッションの徽章と、お母さんからいただいたお守りです。 結婚の話、なんだかあんな人々をからかったみたいですがこんな事情ですからよろしくお断りして下さい。 意思もあったのですから。 ほんとに時間があったら結婚してお母さんを喜ばしてあげようと思ったです。 許して下さいと、これはお母さんにもいわねばなりませんが、お母さんはなんでも私のしたことはゆるして下さいますから安心です。 お母さんは偉い人ですね。 私はいつもどうしてもお母さんに及ばないのを感じていました。 お母さんは苦しいことも身にひきうけてなされます。 私のとてもまねのできない所です。 お母さんの欠点は子供をあまりかわいがりすぎられる所ですが、これはいけないと云うのは無理ですね。 私はこれがすきなのですから。 お母さんだけは、又私の兄弟達はそして友達は私を知ってくれるので私は安心して征けます。 私はお母さんに祈ってつっこみます。 お母さんの祈りはいつも神様はみそなわして下さいますから。 この手紙、梅野にことづけて渡してもらうのですが、絶対に他人にみせないで下さいね。 やっぱり恥ですからね。 もうすぐ死ぬということが何だか人ごとの様に感じられます。 いつでも又お母さんにあえる気がします。 あえないなんて考えるとほんとに悲しいですから。 私のもちもの、日記類なんか、ほんとに汚いものですからやきすてて下さい。お願いします。 お母さんがみられてもいやですね。お母さんだけなら仕方がないですが、こればかりは他人には絶対にみせないで下さい。 私の浅ぱくさがばれるのですから。やはり見栄坊の私は人にあらをみせるのがいやなのです。 必ずやきすてて人にみせないで下さい。 その他の本とか何とかお母さんの気のままに処分して下さい。 私は軍隊に入って変に自信をもちました。 私達は少くとも綺麗な心をもつように育てられたということです。 心の点では、たいがいのものにまけないという自信です。 私の周囲がよかったのですね。 家、そして友達、高校の友達なんかことに有難いです。 出撃が明朝に極りあわただしくなり落着かないのですが、せめて最後の言葉を甘えたいと思って居ます。 家のこと思い出すと有難くて涙が出るばかりですからもうこのことについてはかきますまい。 私がその中に居たことが嬉しいのです。 千代子姉さんは光兄さんのこと御心配でしょうが、大丈夫ですよ。 私は妙な確信をもって居ます。 潤子チャン陽子チャン達が私にかわってお母さんを喜ばしてくれることをお願いします。 今桜がさかりですね。校庭にもつくしが生えていましょう。 春休みがなつかしいですね。 萩尾先生や校長先生や妹尾先生立石の小母さん、松田、井口の小母さん達によろしく。 汽車の中は人が一杯でうごきもきれずたのしかったですね。 結婚の話、みんなでみて品定してその結論をさしあげたのですがあれも私の最後をかざる思い出です。 梅野にきてもらってチャートにコースを入れて居ます。 博多上空をとおります。 宗像の方もとおりますから。 桜の西公園を遠目に遥か上空よりお別れをします。 お母さん、でも私の様なものが特攻隊員となれたことを喜んで下さいね。 死んでも立派な戦死だし、キリスト教によれる私達ですからね。 でも、お母さん、やはり悲しいですね。 悲しいときは泣いて下さい。 私もかなしいから一緒に泣きましょう。 そして思う存分ないたら喜びましょう。 私は賛美歌をうたいながら敵艦につっこみます。 まだかきたいこともありますがもうやめましょう。 お母さんは私を何もかにも知って居られるのですから私の気持は、お母さんがお思いになるとおりに考えて居ました。 軍隊という所へ入っても私は絶対にもとの心を失いませんでしたから、甘える心だけは強くなりましたが。 お母さん、くれぐれも身体を丈夫に長生して下さい。お願いします。 千代子姉さん、博子姉さん、満喜雄さんと、潤子チャン陽子チャン宏明チャンの生長をたのしんでらくにくらして下さい。 変な手紙になりましたが書きなおすのもめんどうだからこのまま出します。 お母さん。くれぐれも身体に注意して下さい。お願い致します。 出撃前日 さよなら 市造 母上様 姉上様

特攻隊員の遺書・手紙は母への想いが大きい

出典: http://the-rich-secret.com

こちらも母親への特攻隊員の遺書です。
3時間前に書いた遺書ということですから、これを書いた後にすぐに亡くなったということになります。

少しも怖くないと書きつつも、寂しさを書いています。
一番怖いのはお母さんの涙とありますが、これはとても深い言葉ですね。

お母さんが悲しまないのなら、特攻する怖さだって少しは薄れるでしょうけど、悲しまない母親などほぼいないのですから。

お母さん、 私は後3時間で祖国のために散っていきます。   胸は日本晴れ。  本当ですよお母さん。 少しも怖くない。   しかしね、 時間があったので考えてみましたら、 少し寂しくなってきました。 それは、 今日私が戦死する、通知が届く。  お父さんは男だからわかっていただけると思います。   が、お母さん。  お母さんは女だから、 優しいから、 涙が出るのでありませんか。 弟や妹たちも 兄ちゃんが死んだといって 寂しく思うでしょうね。   お母さん。 こんなことを考えてみましたら、 私も人の子。やはり寂しい。 しかしお母さん。 考えて見てください。    今日私が、 特攻隊で行かなければ、 どうなると思いますか。   戦争は この日本本土まで迫って、 この世の中で一番好きだった母さんが死なれるから私が行くのですよ。 母さん 今日私が特攻隊で行かなければ、 年をとられたお父さんまで、 銃をとるようになりますよ。 だからね、お母さん。   今日私が戦死したからといって どうか涙だけは耐えてくださいね。 でもやっぱりだめだろうな。  お母さんは優しい人だから。   お母さん、 私はどんな敵だって怖くはありません。 私が一番怖いのは、 母さんの涙です。

神風特別攻撃隊の歴史

特攻隊の歴史をシンプルに説明

神風特別攻撃隊はどういう流れで日本に生まれたのでしょうか?
神風特別攻撃隊は1944年10月20日に初めて作られた部隊で、翌年8月15日の終戦の日まで部隊はありました。
祖国日本を守る為に、国を守る神風となった神風特別攻撃隊の隊員達。

神風特別攻撃隊は志願も募ってはいたようですが、ほぼほぼ強制という状態だったようです。
断ってもしょうがない状況というのは想像出来ますよね。

また、特攻隊は最初は腕の良い隊員だけしか出来ない仕事でしたが、腕の良い隊員達がどんどん死んでいく作戦だった為、最終的にはまだ教育しきれてない隊員も駆り出すことになります。

隊員達の中には、特攻せずに爆弾だけ落として帰ってくる者もいたのだとか。?られるのはもちろんではありますが、自分の命を大切にし、その隊員は無事に終戦を迎えられたとのこと。
どちらが良いのかは難しいところではありますが、残念ながら「無駄死に」となった方も多かったそうですので、良かったのかもしれません。

知覧特攻平和会館について

鹿児島にある知覧特攻平和会館では、神風特別攻撃隊について学べます。
今回紹介した特攻隊員の遺書・手紙は知覧特攻平和会館にて閲覧出来ます。
知覧特攻平和会館は鹿児島にあり、鹿児島ではとっても有名な施設です。

特攻隊員の遺書・手紙は胸を打ちますので、日本中から見に来るのだそうです。
日本の歴史を語る上で欠かせない特攻隊の遺書を見られる知覧特攻平和会館は、とっても価値がありますね。

画像のような戦闘機や、その他様々な資料が知覧特攻平和会館には残されています。

特攻隊への海外の反応は?

出典: https://www.kanzen-creditcard.com

特攻隊についての海外の反応も気になりますよね。
実は海外の人達は、日本の特攻隊員を尊敬している人が多いのです。

自分の命をかけて軍艦を落とすのですから、誇り高いと感じるのでしょうね。

日本人は特攻隊員を否定している?

確かに神風特別攻撃隊は無謀な作戦だったかもしれません。
海外の反応に対して、日本人は特攻隊を馬鹿にする様子も見られます。
これは、特攻隊員を馬鹿にしているのではなく、特攻という作戦を馬鹿にしているのです。

初めは特攻作戦は効いていたのですが、アメリカ側もどんどん対策をとるようになってしまって、成功率が下がっていたからですね。
作戦はどうだったかはさておき、特攻隊員の勇気には誰しもが敬意を表しています。

特攻隊の遺書・手紙のTwitterでの反応は?

神風特別攻撃隊員に頭を下げずにはいられない

靖国神社に展示してある特攻隊員の遺書を読んで涙が止まらなかったツイートです。
特攻隊員の遺書を読んで悲しさを感じない人は、中々いないでしょうね。

神風特別攻撃隊の遺書に敵への憎悪が書いてないこと

特攻隊員の遺書に憎悪が書いていない事を書いたツイート。
確かに、書いてありませんよね。
日本を守ると書いてあるばかりで、敵が憎いという文章が少ないようです。

神風特別攻撃隊の遺書には日本中が涙する

特攻隊の遺書には誰もが心を打たれますので、YouTubeなどでもよく再生されているようです。
心に刻んで、戦争の無い世界になっていくように考えていきたいですね。

特攻隊員の本音が書かれているとは思えない?

あの遺書が特攻隊員の本心だと思うのか。『永遠の0』
— 百田尚樹bot (@hyakutanaokibot) January 21, 2018
特攻隊員の遺書に、特攻隊員の本音が書いてあるとは限らないというお話しです。
特攻隊員の手紙は、上が許可出来るような内容しか書いてはいけないはずだからですね。

本音はどうだったのか、今となっては分かりづらいところではあります。

知覧特攻平和会館に日本人なら行っておきたい

知覧特攻平和会館に行ってみたいというツイート。
日本人なら誰しも一度は行っておきたい施設ですよね。

まとめ~特攻隊の遺書から学ぼう~

出典: http://gendai.ismedia.jp

今回の「特攻隊員の遺書…本音が隠された最後の手紙に泣ける【写真あり】」はいかがでしたでしょうか?

どれもこれも、涙涙の遺書ばかりでしたね。
もしかして本当は、もっともっと本音を書きたかったかもしれません。
恋人に会いたい気持ちは、誰だってあるはずです。
ですが、今から死ぬという時に弱音を吐いていては心もくじけてしまうでしょう。
自分を奮い立たせる為にも、強気な事が沢山書かれていたように思えます。

特攻隊員の気持ちを刻んで、良い日本を皆さんで作っていきたいですね。

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