花魁が生きた時代~遊女の一生が50枚のカラー写真で蘇る~

現代でも華やかなイメージで、歴史映画や写真撮影でも有名な花魁。江戸時代では遊女といって、吉原の遊郭で今でいう性サービスをする風俗女と女優などの芸能人を兼ね備えた存在でした。ここでは江戸時代の遊女(花魁)や吉原の歴史や性事情について写真や絵と一緒にまとめてみました。

花魁が生きた時代~遊女の一生が50枚のカラー写真で蘇る~のイメージ

目次

  1. 1江戸時代、吉原遊郭で生まれた高級遊女「花魁」
  2. 2江戸時代にできた吉原遊郭によってその存在を知らしめた花魁。そもそも日本の遊女の歴史はさかのぼると奈良時代から始まった!
  3. 3江戸時代の花魁たちが働く、幕府公認の性的サービス「吉原遊郭」
  4. 4江戸時代の浮世絵の写真からみる花魁と吉原遊郭の歴史、梅毒蔓延!?江戸の性事情!
  5. 5江戸時代、吉原遊郭はどんな性的サービスを行なったのか?またその独自ルールとは?
  6. 6花魁の歴史、江戸時代の遊女の一生。
  7. 7江戸時代の自由な性事情。遊女、花魁、太夫、男色。日本の性の歴史はこの時代に旺盛した!?
  8. 8花魁を性事情や人生、歴史を題材にした日本映画「さくらん」
  9. 9吉原の歴史、江戸時代のファッションリーダーである遊女たちが生み出した髪型や着物の着方を写真で紹介します!(写真あり)
  10. 10江戸時代以降の吉原遊郭、花魁たちの性サービスはどうやって終わったのか?
  11. 11江戸時代に盛んになった性的サービス。明治の吉原遊郭や街様子が分かる写真を集めて見ました!(当時の写真あり)
  12. 12江戸時代に確立した最高級の性的サービスを行う花魁。明治の花魁や遊女の写真を集めてみました!(当時の写真あり)
  13. 13映画「さくらん」の影響か!?京都では花魁になって写真撮影ができる!?(写真あり)
  14. 14現在の吉原遊郭は?歴史上もっとも華やかだった吉原遊郭。その跡地は?(写真あり)
  15. 15まとめ

江戸時代、吉原遊郭で生まれた高級遊女「花魁」

歴史を振り返ってみる。江戸時代の性的サービスを行う遊女や花魁とは?


出典: http://www.studio-esperanto.com

遊女とは、現代で言うところの娼婦や売春婦のことで当時は遊郭(現代の風俗)や宿場などで性的サービスをする女性のことをそう呼びました。その中でも江戸幕府公認の「吉原遊郭」にいる位の高い遊女のことを花魁と呼びます。現代の高級娼婦や愛人に相当します。実は花魁の名は江戸時代、宝暦以降の呼称で、それ以前までは最高位の遊女のことを太夫(たゆう)と呼びました。太夫は、宝暦(1751-1763年)の終わりとともに消滅し、それ以降は高級遊女のことは花魁と呼ぶようになりました。太夫と花魁の違いについては後半で詳しく紹介したいと思います。

江戸時代の遊女の位

出典: http://japanese.china.org.cn


ここでは江戸時代のおもな遊女の位を紹介したいと思います。

位の低い方から、
・局女郎:見世女郎、端女郎とも呼ばれ、店先の格子の中から客寄せをしました。

・部屋持:自分専用の寝室をもつ遊女。

・座敷持ち:座敷と部屋を持っている遊女で、部屋で生活しながら客をもてなしていました。

ここから上の位の遊女を花魁と呼びました。
・付廻:揚代が金二分の遊女。現代の価格で四万くらいだそうです。付廻にもいろいろ種類があります。

・昼三:張見世をしない揚代が金三分の遊女。(張見世とは店先での顔出しのことです。)現代の価格で六万くらいで、昼三でもいろいろな種類があるそうです。

・呼出し:最高級の遊女で、花魁道中をする権利がありました。(花魁道中とは、呼び出された高級遊女が、禿や新造を引き連れて遊女屋と茶屋などの間を行き来することです。)ちなみに呼出しの揚代は一両一分で現代の価格で約十万円に相当します。

もともと遊郭が認可されたころは、太夫(後の花魁に相当)と端女郎しかいなかったそうです。上記したものも江戸時代の江戸、吉原の呼び名です。太夫の呼び名もそうですが、時代や地域によって遊女の位や呼称は様々なようです。花魁を相手にするにはいくつかのルールもあるそうで、現代の風俗と比較してもかなり高級なことがわかりますね!

江戸時代にできた吉原遊郭によってその存在を知らしめた花魁。そもそも日本の遊女の歴史はさかのぼると奈良時代から始まった!

江戸時代以前の遊女の歴史

歴史を遡ってみると奈良時代や平安時代の遊女は、遊芸による神仏の伝播が主な仕事でした。しかし、このころから男系相続の進展により、母系の家に男性が通うかたちから、別宅の男性の住処があり、そこに性行為を前提に侍る女性が存在し始めます。これによって、子孫繁栄のために対等に行う性行為から、性行為が商品化していく流れができます。日本の歴史の中で自立できなく、貧しい女性が売春行為を行い始めるのはこの時期だそうです。
また、遊女はこれをとは少し違ったようです。遊女は性サービスを遊芸の付属品として、芸の域に領域まで高め、古代から続く巫女のような神性を追求していたと言われています。故に現代になっても、単なる娼婦や売春婦などの風俗としてではなく、一種の芸術的な認識が生まれたのかもしれませんね。

江戸時代の花魁たちが働く、幕府公認の性的サービス「吉原遊郭」

吉原遊郭の歴史、吉原遊郭とはどんな場所だったのか?

「東都名所新吉原五丁町弥生花盛全図」安藤広重

出典: http://j-town.net

吉原遊郭とは現在の日本橋人形町あたりあった江戸時代にできた幕府公認の遊郭です。遊郭とは、今でいう風俗のような場所で遊女たちが集まり、男性に対して性的なサービスをしていたと言われています。吉原遊郭ができた当初は遊女も太夫と端女郎しかいませんでしたが、後に様々な位ができ宝暦以降太夫が消滅し、皆さんもよく知っている花魁という位が吉原遊郭によって生み出されました。吉原遊郭はなぜか火事と縁があり、明暦の大火のあと浅草寺裏に移転し、前者を元吉原、後者を新吉原と呼びます。

吉原と火事の謎の歴史

新吉原大火大門口惨状之実写

出典: http://www.shiryodo.jp

明治44年の吉原の火事の絵。写真ではなく絵ですがその火事の凄まじさは伝わってきますね。

新吉原の火事は延宝4年から慶応2年 の191年の間に22回もあり、噂によれば火事があると遊女は仮宅にうつり、そこでの営業いくらかの旨味があり、密かに火事を願っている遊女もいたと言います。しかし、一度火事が起こると完全に火事がおさまるまで仮宅での営業は許可がおりなかったとも言われています。また吉原は周囲に堀があり、入口もひとつで遊女たちは外に出れず厳しい管理下にあったと言われています。そのため火事になると外に出れるという理由から遊女たちによる放火やそのまま火事になるケースもたくさんあったと言われています。火事になった放火をしたのは下級遊女で、奉公に耐えれなくなったのが理由だと言います。

江戸時代の浮世絵の写真からみる花魁と吉原遊郭の歴史、梅毒蔓延!?江戸の性事情!

歴史上に残る天才絵師・喜多川歌麿

花魁は現代になっても話題になるほどなので、今みたいにTVなどメディアがない時代では浮世絵のモデルになったりと、有名女優のような人気を誇っていたに違いありません。単純な性サービスの象徴としてはではなく、美の最骨頂として花魁は様々な人を魅了していました。江戸時代にはまだ写真は発明されていませんので、ここでは有名絵師が描いた花魁を紹介していこうと思います。江戸時代、浮世絵などに描かれる花魁は歴史の中でも数少ない稀有な存在だったと言われています。

喜多川歌麿「納涼美人図」

出典: http://jugemhorizon.jugem.jp

喜多川歌麿「青楼十二時」

出典: https://www.wikiart.org

吉原遊郭の休日は、お正月とお盆の二日だけだそうです。
この浮世絵は吉原が開いてから2時間、お客さんがつかない遊女が常連のお客さんに手がみを書くところを描いています。

江戸時代の遊郭では、避妊対策もなく梅毒などの性病が蔓延していた!?

喜多川歌麿による吉原遊郭の浮世絵

出典: http://news.livedoor.com

江戸時代の日本人は(今もそうなのかもしれませんが)、夫婦以外の人と性行為することに罪悪感がなく、遊郭での性病対策や避妊などもあまりなく梅毒などの性病が蔓延していたと言われています。

葛飾北斎「吉原遊郭の新年」

出典: http://www.wochikochi.jp

葛飾北斎(1760~1849年)

ここまでみると、遊郭や花魁は華やかなイメージが多いですが、現実は梅毒によって死んでしまう遊女がたくさんいたと言われています。遊郭では特に規制がありませんでしたので、梅毒以外にも他の病気になったり、妊娠中絶によって身体を壊し死に至るケースも稀ではなかったと言います江戸幕府医学所頭取が残した記録には、当時身分が低い人の100人のうち95人が梅毒にかかっていたと記されています。またこの遊郭ができた江戸時代、100年ほどのあいだで日本で梅毒が蔓延したと言われています。ちなみに吉原などの隠語で下級遊女のことを鉄砲と呼んでいました。理由はもしこういう遊女を買うと梅毒になるからです。梅毒なんて病名は今でこそほとんど耳にしなくなりましたが、梅毒は感染して10年ほど経過すると臓器など腫瘍ができたり、痴呆になり死に至るそうです。現代の発展した医療では梅毒で死に至ることはまずないそうです。

これが江戸時代の避妊対策!写真あり!必見!

江戸時代のコンドーム!「茎袋(=きょうたい)」

出典: https://jp.pinterest.com

1857年(江戸時代後期)に出された閨中女悦笑道具(けいちゅうにょえつわらいどうぐ)によると、当時オランダからの輸入品で別名ルーデサックと言う動物の皮で作った現代のコンドームの原型のような避妊具があったらしいです。しかし、この避妊具、高価の割にはあまり効果がなかったらしいです。そんな高価な避妊具を庶民が買えるわけもなく、梅毒が蔓延してたのも嘘ではなさそうですね。

江戸時代の避妊具「甲形(=かぶとがた)」

甲形は男性の性器の先端につけて使用する避妊具だそうで、水牛の角やウミガメの甲羅でできていたらしいです。ちなみに写真左は「鎧形(=よろいがた)」と言い、避妊具ではなく、いわゆる江戸時代のアダルトグッズだそうです。

上記のように江戸時代には一応避妊具も存在していたらしいですが、茎袋も甲形も鎧形も避妊するためというよりはむしろ閨中女悦笑道具とあるように、あまり役に立たないものとして「笑い道具」、「大人のおもちゃ」という感覚の方が強かったそうです。江戸時代ですから、現代ようにゴムのような素材でできた避妊具はありませんし、ましてやピルなどのような避妊薬もないでしょう。しかし、ここには現代にも引き継がれたアダルトグッズや避妊具などをつくる人間の創造力が垣間見えますね!

江戸時代、吉原遊郭はどんな性的サービスを行なったのか?またその独自ルールとは?

・遊女と遊ぶためには茶屋に取り次いでもらう必要があり、まず茶屋でお金をたくさん使い豪遊しなければいけなかったそうです。(このあたりから現代の風俗とは少し違いがありますね。)

・花魁は客よりも上位で、座敷では客は常に下座に座っていたらしいです。(もはや風俗というよりはアイドルや芸能人の追っかけに近いのかもしれません。)

・1回目(初会)遊女は客とは口もきかず、離れたところから客の品定めをしたといいます。遊女が気に入らなければ付き合えなかったそうです。この回で客は大金を使い財力を見せつけなければいけなかったそうです。(お金が必要なのは風俗も遊郭も一緒みたいです。)

・2回目(裏)遊女は少し近くに座るらしいですが、基本的には1回目と同じだそうです。

・3回目でやっと名前の入った膳と箸が用意してもらえるそうで、この回より床入れが可能となります。しかし客はご祝儀としてお金を払わなければならない。(一線を越えれると言う意味では風俗とは違う中毒性がありそうです)

・馴染みになったらなったで、他の遊女と遊ぶと浮気とみなされ、大金を払う必要があったといいます。(この辺の縛りも風俗にはないですね)

上記のルールをみると現代の風俗とは全く違うシステムですね。アイドルの追っかけと風俗が一緒になっているようなシステムで、日本のアイドルブームもここに原型があるのかもしれませんね!

花魁の歴史、江戸時代の遊女の一生。

10代で客を取り、27歳には引退する!?

幕末の写真

出典: http://www.liveinternet.ru


江戸時代の綺麗な着物を着て、華やかなイメージの遊女たち。しかし、いくらいい着物を着て飾っても現実は遊郭の商品でしかなかったといいます。休みもほとんどなく、食事も大したものは出ません。商売で使う着物や髪飾り、化粧品はすべて自分で買い揃えなければいけなく遊女たちは借金してこれらを揃えるそうです。江戸時代、遊女が働けるのは17歳から27歳くらいまでで、この間に稼いで借金を返さなければならなかったそうです。当然男との駆け落ちは厳禁で、見つけだされた男は殺され、遊女も見せしめで厳しい罰を受け、場合によっては死亡することもあったといいます。
遊女が外に出る方法は3つ。満期働いて、遊女から足を洗うか、お金のあるお客様に「身請け」される場合、死んだ場合です。「身請け」といっても太夫や花魁クラスの遊女は身請け金が非常に高額になり、まずそんなお金持ちは現れなかったといいます。
外に出るために死ぬほど働いた結果、病気など死んでいった遊女はたくさんいたと言います。梅毒の末期で痴呆になり捨てらるケースも多かったと言われています。

江戸時代の自由な性事情。遊女、花魁、太夫、男色。日本の性の歴史はこの時代に旺盛した!?

出典: https://ja.wikipedia.org

花魁や太夫などの遊女の歴史や文化が有名な江戸時代の性事情ですが、江戸時代は、武士同士の同性愛関係も盛んな時代でした。一般的には男色とか衆道と言われます。平安時代に公家の間で流行った美少年趣味が江戸時代に衆道として確立され広まったようです。衆道はその後徐々に衰退していくのですが、それでも武士の精神と深く結びつく男性同士の恋愛はその後も幕末維新くらいまで続いたそうです。

花魁を性事情や人生、歴史を題材にした日本映画「さくらん」

映画「さくらん」

出典: http://minablomma.exblog.jp

着物などの衣装から部屋まで非常に鮮やかで華やかな演出です!

有名女優と華やかな着物や舞台で描かれる写真作品のような花魁映画!

映画「さくらん」は漫画家安野モヨコの作品を、写真家蜷川実花が監督した映画です。花魁の人生や性事情をうまく物語化しており、着物や美術も鮮やかに美しく、当時の遊女たちの人生を知るにはちょうどいい娯楽映画だと思います。また、この映画の影響か、華やかで鮮やかな映像を得意とする蜷川実花の作風は多くの若い女性に共感を与え、後述しますが、華やかな着物を着て写真撮影をするサービスも誕生しています。予告篇を見ていただくと分かりますが、着物や部屋の装飾など様々なものが鮮やかに表現されています。現代の花魁のイメージがここから生まれたと言っても過言ではないでしょう。

吉原の歴史、江戸時代のファッションリーダーである遊女たちが生み出した髪型や着物の着方を写真で紹介します!(写真あり)

出典: http://samuraikb.blog.so-net.ne.jp

花魁の着物の帯が前結びなわけ!

花魁の着物は、脱ぎやすいように帯が前結びになっていると思われがちですが、実は着物の着方として娘は後結び、既婚の女性は前結びという習わしがあるそうです。一夜限りの妻になる花魁が着物の帯を前結びにする理由もここにあるわけです。

ファッションリーダーの花魁は様々な髪型を生み出した!

それでは花魁が生み出した代表的な髪型を紹介していきます!

兵庫髷と横兵庫

出典: http://www.po-holdings.co.jp

横兵庫

出典: http://saiunkangetsuj.blog28.fc2.com

島田髷

出典: http://youkiniiko.exblog.jp

現代では和装の花嫁の髪型で有名な金高島田の原型だそうです。

勝山髷

出典: http://www.po-holdings.co.jp

江戸時代以降の吉原遊郭、花魁たちの性サービスはどうやって終わったのか?

明治の花魁と吉原の性事情と歴史

幕末の花魁

出典: http://www.liveinternet.ru

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明治以降は、芸娼妓解放令が出たために遊女屋は貸座敷と名前を変えましたが、それでも江戸時代と変わらず遊女たちは敷地内に閉じ込められたような状況で、1911年の吉原大火でも全焼しましたが、その後復活しました。第二次世界大戦後に公娼廃止なり、いわゆる赤線となりましたが、1958年売春防止法により完全に終焉を迎えました。

太夫と花魁のその後

島原の振袖太夫

出典: https://ja.wikipedia.org

江戸時代、太夫という呼び名は一旦消えましたが、のちに売春行為が禁止されると太夫は芸を売る商売に特化していき、体を売ることに特化していた花魁は次第に消えていきます。2010年の時点で、島原に太夫が4人在籍していたそうです。

江戸時代に盛んになった性的サービス。明治の吉原遊郭や街様子が分かる写真を集めて見ました!(当時の写真あり)

新吉原仲ノ町(1910)

出典: http://getnews.jp

新吉原大門(1910)

出典: http://mag.japaaan.com

吉原、遊女と客

出典: http://getnews.jp

出典: http://mag.japaaan.com

吉原遊郭

出典: http://getnews.jp

吉原の中にある庭園

出典: http://mag.japaaan.com

江戸時代に確立した最高級の性的サービスを行う花魁。明治の花魁や遊女の写真を集めてみました!(当時の写真あり)

高橋由一による花魁(明治初期)

出典: http://bunka.nii.ac.jp

花魁と禿

出典: http://www.wagaraga.com

出典: http://www.wagaraga.com

楊洲周延「里の花廓の賑」(明治22年)

出典: https://www.kumanekodou.com

大正3年新吉原遊郭の花魁

出典: http://junko-mitsuhashi.blog.so-net.ne.jp

映画「さくらん」の影響か!?京都では花魁になって写真撮影ができる!?(写真あり)

最近では京都などで花魁の衣装を着て、写真撮影ができるサービスがあるらしいです。鮮やかな着物や装飾で華やかな部屋で写真をとるみたいですが、映画「さくらん」影響が色濃くでていますね。

現在の吉原遊郭は?歴史上もっとも華やかだった吉原遊郭。その跡地は?(写真あり)

現在の吉原の写真

出典: https://ja.wikipedia.org

出典: http://blog.livedoor.jp

出典: https://liginc.co.jp

江戸時代、遊郭があったその場所は、現在は日本一のソープランド街になっているそうです。時代は移り変わりましたが、吉原遊郭の歴史は受け継がれているようですね。

まとめ


花魁や吉原の歴史いかがだったでしょうか?現代の花魁のイメージは映画「さくらん」の影響が色濃いですが、江戸時代の芸と性の文化はいまだに魅力的ですね!ここでは江戸の浮世絵から、幕末の写真など様々な画像を50枚ほど紹介しましたが、まだまだウェブ上にはたくさんの画像が溢れています。興味が湧いた方はぜひ調べてみてください!

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