プロレスのリング禍(死亡事故)の一覧まとめ
「受け身の天才」と言われた三沢光晴が試合中にリング禍で死亡した事故はプロレスファンならずともショックを受けました。十分な練習で鍛えられた肉体を持つプロレスラーも事故は避けられません。リング禍による死亡事故のケースをまとめてみます。
目次
- 1JWP プラム麻里子 日本のプロレスで初の死亡事故
- 2アルシオン 門恵美子 プロレスデビュー1か月足らずのリング禍
- 3新日本プロレス 福田雅一 男子プロレス初の死亡事故
- 4プロレスリングNOAH 三沢光晴 受け身の天才がまさかのリング禍
- 5WWF(WWE) オーエン・ハート 30mの高さから転落事故。観客はプロレスの一部と勘違い
- 6プエルトリコ マイク・マーテル あのホセゴンザレスとの試合でのリング禍
- 7TNA クリス・キャンディード 事故で骨折 手術後に
- 8ゲーリー・オブライト リング禍寸前のスープレックスでKOしてきたゲーリーも・・・
- 9ペロ・アグアヨ・ジュニア 事故に誰も気づかなかったリング禍
- 10リング禍で瀕死の重傷を負ったプロレスラーたち
- 11新日本プロレス 馳浩 臨死体験する大事故
- 12FMW ハヤブサ まさかのミスによる事故
- 13大日本プロレス 山川竜司 大事故を目にした観客達のアンケートで復帰
- 14ドロズ ビヨンド・ザ・マットの「ピューク」がリング禍に
- 15安川悪斗 「放送事故」といえる公開処刑で失明
- 16高山善廣 自らの回転エビ固めでリング禍
- 17相次ぐプロレス事故 安全対策は?
JWP プラム麻里子 日本のプロレスで初の死亡事故
プラム麻里子
本名梅田麻里子。ジャパン女子プロレスの第一期生。サンボなどの格闘技を習得し、関節技を得意としたため「サンボクイーン」と言われた。享年29歳。
出典: https://ameblo.jp
尾崎魔弓
本名は尾崎 まゆみ。1986年、ジャパン女子プロレス入団。同期のキューティー鈴木と共にアイドルレスラーとして人気を二分する。98年にOZアカデミー女子プロレスを旗揚げ。保育士目指し、ミステリー小説も執筆する。
1997年8月15日、広島アステールプラザで行われた、プラム麻里子&コマンドボリショイVS尾崎魔弓&天野理恵子の試合で、尾崎魔弓のライガーボムを受けて、プラム麻里子のピンフォール負け。
その後にプラム麻里子は意識不明の重体となり、救急車で病院に搬送。
開頭手術には成功したものの、翌日に容態が急変。急性硬膜下出血並びに脳挫傷により死去。
訃報は翌朝のスポーツ紙の1面を飾り、日本のプロレスでの初の死亡事故に、ファン関係者はショックを受けました。
尾崎も罪悪感にかられていたといいますが、毎年命日に「プラム麻里子追悼」興行を行っています。
ライガーボム
出典: http://blog.livedoor.jp
危険が指摘されていた女子プロレス
事故のあった翌週の週刊プロレスに掲載された、死亡事故に繋がったライガーボムの写真を見ると、プラム麻里子は受け身が取れていたのではと、複数のプロレスラーが語りました。
それ以前から、特に女子プロレスは派手で危険な技を連発していました。しかも試合時間も長く、頭から落とすような技が何度も出されていました。
当時、週刊プロレスでのインタビューで、ある男子レスラーから「女子は凄い。男子なら大けがをしているような技を連発している。女子は体が柔らかいからだろうか」というコメントも出ていました。
恐らく、プラム麻里子に限らず、レスラーの脳などにはダメージが蓄積されており、いつ死亡事故が起きてもおかしくない状況だった可能性があります。
愛嬌があり、ファンからも人気のあったプラム麻里子の訃報から、二度とリング禍は起こさないという論調が出ましたが、プロレスの技はエスカレートする一方でした。
アルシオン 門恵美子 プロレスデビュー1か月足らずのリング禍
門恵美子
学生時代はソフトボールの選手だった。
1999年アルシオンに入団。
いきなりアジャ・コングとの試合でプロデビューをする抜擢を受けた。
享年23歳。
出典: https://ameblo.jp
吉田万里子
本名盛田万里子。1988年、全日本女子プロレスに入団。元々は空中殺法を得意としていたが、頸椎を故障してからは、関節技を主体とするプロレスを行う。2017年11月引退予定。
出典: https://ja.wikipedia.org
デビューから1か月足らずの1999年3月31日福岡大会で、門恵美子VS吉田万里子のシングルマッチで、門恵美子が下からキーロックを狙ったところ、吉田万里子に持ち上げられた門恵美子は、そのまま後頭部からリングに叩きつけられ意識不明の重体となりました。門恵美子は病院に搬送されて手術を受けますが、急性硬膜下血腫及び脳挫傷で死去。
期待の新人の訃報は、翌朝のスポーツ紙の格闘技面に掲載され、改めてプロレスの危険性が問われることになりました。
キーロックを持ち上げた体勢
出典: http://takoyakimachine.com
事故を胸に
2017年11月に引退する吉田万里子は、一番思い出に残る出来事に門恵美子が事故で死亡してしまったこの試合を挙げました。自らのブログにも門恵美子について語っています。故意では無いし、過失が無かったにしても、対戦相手には罪悪感が残ってしまうのですね。
新日本プロレス 福田雅一 男子プロレス初の死亡事故
福田雅一
中学3年生時、相撲の関東大会で貴乃花(花田光司)と対戦。
三沢光晴と同じ足利工業大付属レスリング部に入り、日大4年時に国体優勝。
レッスル夢ファクトリーでプロレスデビュー。
紙のプロレス上で、谷津嘉章から福田は格闘技でも通用するなどと絶賛される。
新日本プロレス移籍後は、小川直也戦を控えた橋本真也の格闘技の練習相手としても知られた。
享年27歳。
出典: https://ameblo.jp
柴田勝頼
プロレスラー、レフェリーとして活躍した柴田勝久の子。97年全国グレコ選手権に出場。98年3月に新日本プロレスへ入門。総合格闘技のHERO'Sにも参戦。プロレス復帰後も第一線で活躍。2017年4月9日、柴田はオカダカズチカとの試合後、昏倒し救急車で都内の病院に搬送。急性硬膜下血腫と診断され手術を受けた。
出典: http://www.njpw.co.jp
試合中の事故による硬膜下血腫のため4か月間欠場した福田は、2000年4月14日新日本プロレス気仙沼市総合体育館大会にて、ヤングライオン杯初戦として柴田勝頼と対戦。
ダイビングエルボーを受けた際、そのままリングにうずくまるようにいびきをかき昏倒。病院へ運ばれ、開頭手術を受けた。
永島取締役がトークショーで語ったところによると、脳からの出血量が多く脳死状態になり、呼ばれた家族は延命措置を取らないことを選択し管が外され、4月19日急性硬膜下血腫のため死去。
日本人の男子プロレスラーが試合中の事故で亡くなったケースは初めてだった。プラム麻里子、門恵美子に次いで3番目のリング禍による死亡事故となりました。
予感されていたリング禍
同い年のプロレスラー田中稔がブログで当時の様子を書いています。
オレが呼ばれてないツアーで、福田選手が試合中に脳出血があって欠場になったのを知って心配はしてたんだけど、その数ヶ月後に出血も脳の腫れも引いたということで2000年4月のツアーで行われるヤングライオン杯で復帰するって発表になって、オレもそのツアーにはほぼ全戦参戦だったから開幕の宮城県気仙沼大会のために東京駅で選手が集合して新幹線で気仙沼に向かった。 その日は4月14日でオレのプロレス界入門記念日だったから勝手に気合い入ってたんだけど、復帰する福田選手が心配だったから気仙沼駅着いてバスに荷物を積むときに「福田選手もう復帰しちゃってマジで大丈夫なんですか?」って聞いたら「大丈夫だから復帰するんですよ!」って笑顔で答えてたし、あ!これなら大丈夫そうだなって思ったんだけど 結局この会話が福田選手とした最後の会話になっちゃった。 試合開始時間になってたまたまオレがトイレに行って帰ってきたときに福田選手が入場直前で入場口の前で出番を待ってて オレは「頑張ってくださいね!」って声をかけようとしたんだけど、とにかくスッゴい緊張した顔で立ち尽くしてて”ヤッパリ頭のケガからの復帰戦だし不安とか怖さもあるだろうし集中してるとこに声かけない方がいいかな“って思って声かけないで控え室に戻った。 気仙沼大会はテレビマッチとかじゃなかったから控え室にモニターがなくてオレも福田選手の試合のすぐ後にジュニアのタッグマッチが組まれててイッパイイッパイだったから控え室で集中してたら特に会場内が盛り上がってない状態で試合終了のゴングが唐突に聞こえて、長州さんが「おい!行ける選手はとにかく全員リング行け!」と叫んでたから“あ!まさか福田選手何かあったかな!!?”って瞬間的に思って、当時まだオレは所属選手じゃなかったんだけどとりあえず行かなきゃと思ってリングに行ったらやっぱり福田選手が試合中に意識失って倒れて動かなくなって試合が終了したとの事で全員が愕然とした。リングに行った選手全員で福田選手をリングから運んで そのまま気仙沼市内の病院に搬送されて、みんなで試合後に病院行ったんだけど意識が戻るような見込みはなくて新日本の選手は翌日仙台で試合でオレはバトラーツの浜松大会だったから、福田選手を気仙沼に残して翌日は移動してそのままツアーだった。
プロレスリングNOAH 三沢光晴 受け身の天才がまさかのリング禍
三沢光晴
本名三澤 光晴。1981年に全日本プロレスでデビュー。二代目タイガーマスク、超世代軍のエース、そして同団体のエースとして活躍した後、2000年にプロレスリング・ノアを旗揚げ。社長兼レスラーとしてプロレス界の代表的な存在だった。享年46歳。
出典: http://www.noah.co.jp
齋藤彰俊
インディー団体を転々としていたが、1992年1月に所属する空手道場・誠真会館(青柳館長…但し斉藤は青柳の弟子ではない)と新日本プロレスの抗争で週刊プロレスの表紙を飾る。平成維新軍などを経て、ノアに参戦。現在もノアに所属。
出典: http://www.noah.co.jp
直接事故原因となった急角度バックドロップ
確かに危険ですが、三沢がこの手の技を受けるのは日常茶飯事でした。
出典: http://saraba20ju.blog54.fc2.com
2009年6月9日、東京スポーツの取材に応じた三沢は「もうやめたいね。体がシンドイ。」と語り、自ら限界を感じていたことを示唆していました。そして6月13日、広島県立総合体育館のメインイベントのGHCタッグ選手権試合で、チャンピオンのバイソン・スミス&齋藤彰俊VS挑戦者の三沢光晴&潮崎豪の試合中にリング禍が起こりました。
齋藤彰俊の急角度バックドロップを受けた際、受け身を取ったものの、そのまま意識不明となり、心肺停止状態に陥りました。
リング上で救急蘇生措置が施され、病院に搬送されましたが、午後10時10分に頸髄離断のため死去。
当日はテレビの生中継も入っており、ニュースでは事故後の映像が流されました。
若手時代から受け身には定評があり、ジャンボ鶴田のバックドロップなど大技を受けても戦い抜いてきましたが、長年蓄積されたダメージは命を削っていました。
訃報のニュースに、あの三沢ですらという衝撃が走り、NOAH・仲田龍取締役、新日本・菅林直樹社長、全日本・武藤敬司社長と衆議院議員の馳浩らが再発防止のための意見交換を行いました。
結果的に「加害者」となった齋藤彰俊は、一部心ないファンから批判に晒されましたが、「どんな重い十字架でも背負う。リングに上がり続けることが社長への恩返し」と現役を続行し、「贖罪」のバックドロップを使い、ファンに涙ながらに謝罪をしました。
WWF(WWE) オーエン・ハート 30mの高さから転落事故。観客はプロレスの一部と勘違い
オーエン・ハート
カナダカルガリー出身。
新日本プロレスではIWGPジュニアヘビー級王座も獲得。
1990年代のWWF(現WWE)ではブレットなど兄弟とともに中心選手として活躍。
ブルー・ブレイザーというマスクマンとしても知られている。
事故時もマスクマンとして登場しようとしていた。享年34歳。
出典: https://ja.wikipedia.org
日本語でのオーエンハートの訃報第一報は、インターネットの掲示板に「WWFの派手な演出でオーエンハート死去」というタイトルのスレッドで流れました。
当時はスカパーでWWF(WWE)の番組が2-3週遅れで放送されており、その訃報のあった前日も、日本の放送ではオーエンハートが出演していました。
その後、ネット上に詳細が出て、その事故の動画も流されました。
観客は当初は落下もショーの一部と勘違いしていたようです。
なぞのマスクマン、ブルー・ブレーザーは天からリングに舞い降りてくるはずだった。 “魔の一瞬”は第3試合開始の直前に起きた。ブルー&レッドのマスクに白いフェザー(羽)のマントを身にまとった人の影が観客の目のまえでいきなり空から降ってきて、コーナーポストの金具に激突し、そのまま動かなくなった(1999年5月23日、ミズーリ州カンザスシティー、ケンパー・アリーナ=PPV“オーバー・ジ・エッジ”)。 セキュリティーがすぐにかけつけてリング上で人工呼吸などの応急処置をほどこしたが、すでに意識はなく、数分後に現場に到着した緊急医療チームがカンザスシティー市内のトゥルーマン・メモリアル病院に搬送したが、まもなく死亡が確認された。
その後も興行が続けられたため、WWF(WWE)は批判にさらされました。兄のブレッドハートもトップのビンス・マクマホンを断罪しました。
事故当時はその瞬間の動画が拡散されていましたが、今は全て削除されているようです。
こちらは、どれくらいの高さから落下したのか、自己直後の様子がわかる動画です。
プエルトリコ マイク・マーテル あのホセゴンザレスとの試合でのリング禍
マイク・マーテル
ジャンボ鶴田を破った元AWA王者でWWF(WWE)にも所属したリック・マーテルの実兄。国際プロレスに2度来日IWA世界タッグも奪取している。プエルトリコを主戦場にしていた。享年33歳。
出典: http://www.showapuroresu.com
インベーダー1号(ホセ・ゴンザレス)
ベネズエラ出身。WWWF(現WWE)でデビュー。プエルトリコを主戦場にして、ボスであるカルロス・コロンの右腕としてマッチメーカーも勤める傍ら、覆面をつけインベーダー1号というプロレスラーとして活躍した。全日本プロレスに4度来日。ブルーザーブロディ刺殺事件の実行犯とされるが、正当防衛として無罪となった。FMWの大仁田厚がプエルトリコでホセゴンザレスに腹を刺されるギミックを行い、FMWに来日が発表されたが、大きな反発を呼び中止となった。
出典: http://www.showapuroresu.com
ホセ・ゴンザレスという名前は、昭和のプロレスファンなら知らない者はいないかもしれません。あのブルーザー・ブロディを刺殺した実行犯と言われ、ブロディ―の訃報とセットで覚えらえた名前です。
そのホセ・ゴンザレスが、その10年前に引き起こしたといわれるリング禍がありました。
1978年6月30日、プエルトリコのポンセにて、インベーダー1号(ホセ・ゴンザレス)VSマイク・マーテルの試合中。インベーダー1号の心臓部へのパンチが原因で、マーテルは試合後に心臓発作を起こし病院に搬送されたものの死去。
TNA クリス・キャンディード 事故で骨折 手術後に
クリス・キャンディード
1986年に14歳でデビュー。ECWでタッグ王者になるなど大活躍。WWF(WWE)に移籍後は『レッスルマニアXII』でWWF世界タッグ王座も獲得。ECW復帰後もタッグ王者になるなど第一線で活躍した。2001年5月には新日本プロレスに参戦。『ベスト・オブ・ザ・スーパージュニアVIII』に出場した。享年33歳。
出典: https://ja.wikipedia.org
2005年4月24日、TNAのPPV「ロックダウン」にて、クリス・キャンディード&ランス・ホイットVSアポロ&ソニー・シアキのNWA世界タッグ選手権のかかった金網デスマッチで、脛骨と腓骨を骨折、足首をねん挫する重傷を負い、翌日、チタンとボルトを入れる手術が行われました。
2005年4月28日、キャンディードは体調不良を訴え容体が急変、ニュージャージー州の病院に搬送されました。急性肺炎と診断され肺の水が抜かれましたが死去。死因は急性肺炎と手術の血栓の合併症と言われています。
この突然の訃報はレスラー仲間やファンにショックを与えました。WWEが2005年に主催した「ECW復活 ワンナイトスタンド」興行で、団体崩壊から当日までに死去してしまった元ECWレスラーが紹介される中、最後に紹介されたキャンディードに対し、客席から大「キャンディード」コールが起こりました。
ゲーリー・オブライト リング禍寸前のスープレックスでKOしてきたゲーリーも・・・
ゲーリー・オブライト
大学時代にNCAA(グレコローマン)レスリング選手権スーパーヘビー級を3度制覇。。1991年8月にはUWFインターナショナルに参戦。高速スープレックスで絶対エースの高田延彦をKO。対戦相手の目の瞳孔が開くほど強烈なスープレックスは「殺人スープレックス」と恐れられた。その後全日本プロレス移籍し活躍。享年36歳。
ゲーリー・オブライトの高速スープレックスは、いつ「下手したら死人が出る」と恐れられ、実際にリングにたたきつけられた対戦相手の目の瞳孔が開くほどの衝撃でした。全日本プロレスでは三沢に高速スープレックスをかけフォール勝ちもしています。
晩年のオブライトは動きに制裁を欠き、往年の動きが無くなっていました。
糖尿病を患い、格闘技の練習どころか、基礎練習すらままならなかったとのこと。
2000年1月7日、ペンシルバニア州のインディーの大会にて、ルシファー・グリムと対戦。グリムのフェイスロックブルドッグをかけられた直後、オブライトはリングに倒れこみました。グリムは心配し、すぐに試合を終わらせ、レスラーと関係者が応急処置を取りましたが、オブライトは直後に死去。死因は心臓発作でした。
ペロ・アグアヨ・ジュニア 事故に誰も気づかなかったリング禍
ペロ・アグアヨJR
狂犬ペロ・アグアヨの息子。1995年6月18日AAAにてペリートのリングネームでデビュー。2000年3月父親の引退ツアーで新日本プロレスに来日。メキシコの2大団体CMLLやAAAで活躍した。父親譲りのダイビングセントーンを得意技としていた。享年35歳。
出典: http://www.luchalibreaaa.com
レイ・ミステリオJR
15歳でメキシコ・ティフアナでデビュー。WCWに移籍後はクルーザー級チャンピオンになる。エディ・ゲレロとの試合は名勝負として知られる。WWE移籍後はロイヤルランブルを60分間闘い続ける等の活躍を見せ、小さな巨人として、大型選手相手の試合で人気を独占した。現在はメキシコAAAに所属。
出典: http://mistico-tiger.ldblog.jp
2015年3月21日メキシコ・ティファナにて、ペロ・アグアヨJR&マニックVSレイ・ミステリオ・ジュニア & エクストリーム・タイガーとの対戦中、ペロ・アグアヨJRはミステリオのコルバタを受け、場外に落ちる際にリングエプロンの角の金具部分に後頸部を強打し頚椎を骨折。そのままリングに戻ったが、背後からドロップキックを受けた際にロープにもたれかかるように昏倒しました。一時的な失神と思われ、試合は5分間続行されました。周囲がアグアヨJRの異変に気付いたのはマイクパフォーマンスが終わった10分後。応急処置が取られ、病院に搬送されましたが翌朝1時半に死去。
訃報と事故の動画はSNSなどで、全世界に拡散され、世界中の主要メディアでニュースとして取り上げられました。
ミステリオは地元ティファナへ15年ぶりの凱旋試合での事故にショックを受け、罪悪感に打ちのめされたと言われています。
リング禍で瀕死の重傷を負ったプロレスラーたち
プロレスは危険と隣り合わせです。元プロレスラーの安生洋二は「総合格闘技よりプロレスのほうが危険だ。受け身をどんなに完璧に取っても、脳が動く感じがする」とトークショーで話しています。死亡事故にならないまでも、その一歩手前のリング禍は多く発生しています。
新日本プロレス 馳浩 臨死体験する大事故
馳浩
元プロレスラー。自由民主党所属の衆議院議員。レスリングでロス五輪出場。母校星稜高校で教員を務めた後に1985年プロレス入り。新日本プロレスでは佐々木健介とのコンビで活躍。2006年引退。
出典: http://www.kantei.go.jp
後藤達俊
1982年8月アントニオ猪木が名誉会長をつとめる寛水流空手の初代会長水谷征夫の紹介により、26歳で新日本プロレスに入門。アントニオ猪木の付き人を務めていた。悪役レスラーとして20年以上に渡り活躍。
出典: http://xn--gckqu.net
1990年6月12日福岡国際センターにて後藤達俊とタッグマッチで対戦した馳浩は、後藤達俊のバックドロップを空中で体を浴びせて切り返そうとして失敗し、側頭部からリングに叩きつけられました。試合後に控室で馳は倒れ心肺停止状態になり、周囲の蘇生により1分後に意識が戻りました。馳によるとその間、身体から幽体離脱する臨死体験のような夢を見たそうです。技をかけた後藤も罪の意識から、もし馳が死去してしまったらプロレスを辞めようと思っていたそうです。
FMW ハヤブサ まさかのミスによる事故
ハヤブサ
本名江崎英治。1991年FMW入門。デビュー時から並外れた運動神経で魅了。1995年5月5日川崎球場で行われた大仁田厚の「引退試合」の対戦相手となった。その後もリング上で事故を起こすまでFMWのエースとして活躍した。享年47歳。
出典: http://aozora-band.com
体調不良が招いたリング禍
2001年10月22日後楽園ホールで社長交代マッチとしてハヤブサVSマンモス佐々木が行われました。ハヤブサは高熱を出していましたが、最終戦を休む訳にいかないと強行出場しました。事故は飛び技を連発している時に起こります。ラ・ブファドーラという大技を決めようとセカンドロープに飛び乗った瞬間に、ロープが回り足を滑らせ、頭からリングに落ちます。そのままハヤブサは動けなくなります。頚椎を損傷の重傷を負い、半身不随となりました。寝転んだ状態で「俺が命をかけたFMWを見捨てないでください」とマイクアピールをするなど、意識はありましたが、これが生涯最後の試合となってしまいました。
その後、杖を使って歩けるほど回復しましたが、2016年3月2日くも膜下出血で死去。
突然の訃報に、復帰を望んでいたプロレスファンは悲しみました。
大日本プロレス 山川竜司 大事故を目にした観客達のアンケートで復帰
山川竜司
本名山川征二。大日本プロレスでデスマッチファイターとして人気選手となる。試合中の事故から復帰後は以前の様な精彩を欠き、2010年引退。スナックを運営しながら、大日本プロレスのスタッフとして勤務。
出典: http://blog.livedoor.jp
ワイフ・ビーター
本名マット・プリンス。元海兵隊員。芝刈り機を凶器としていた。現在は引退。
出典: http://www.interq.or.jp
2001年3月18日博多スターレーンでの山川竜司VSワイフ・ビーターの試合中、ワイフビーターがリング脇から場外のチョークスラムを狙った際、距離を誤り後頭部から床に落ち、頭蓋骨骨折となり意識不明の重体になる事故が起こりました。
一命を取り止め、しばらくしてから山川は後楽園ホールの試合会場には顔を見せるようになり、登坂部長(当時)とトークショーを行うようになります。
そして山川の復帰について、復帰すべきか引退すべきかという判断をファンにしてもらおうという企画が行われました。
ファンにも意見が二分していたからです。
当日の全座席には〇と×の紙が置かれ、〇が多ければ復帰、×が多ければ即引退となりました。
結果は7:3くらいの割合で〇が多く、リング復帰が決まりました。
12月の横浜アリーナで復帰しますが、事故の後遺症による左半身のマヒやヘルニアなどが響き、事故後は試合に精彩を欠いてしまいました。
ドロズ ビヨンド・ザ・マットの「ピューク」がリング禍に
ドロズ(ピューク)
1993年にNFLのデンバー・ブロンコスにドラフト指名され入団。嘔吐症に悩む。WWF(WWE)の裏側を撮影したドキュメンタリー映画「ビヨンド・ザ・マット」でオーナーのビンス・マクマホンの面接を受ける場面で、「バケツに吐け」というシーンは映画CMにも使われた。「ピューク」としてデビューし、中堅選手として活躍していた。興行内で行われた格闘技のトーナメントにも出場した。
出典: http://keibadameningen.cocolog-nifty.com
プラム麻里子選手、門恵美子選手、三沢光晴選手や馳浩選手の事故と共通するのが、頭から落とされる技でのアクシデントです。受け身を取っても、首をどれだけ鍛えていても、頭から落ちてしまうとどうしようも無いし、毎日のように受けてダメージが蓄積されていると尚更リング禍になりやすいということでしょう。
WWF(WWE)でも、1999年10月5日ドロズVSディーロ・ブラウンの試合中、ブラウンのパワーボム喰らったドロズが立てなくなり試合は中断、病院へと搬送される事故が起こりました。脊髄を損傷し下半身不随。結局この故障により間もなく引退を迎え、現在はWWEのスタッフとして勤務しています。
映画「ビヨンズザマット」の代表的シーン。ピューク誕生の瞬間。
安川悪斗 「放送事故」といえる公開処刑で失明
安川悪斗
本名安川祐香。8年間、舞台を中心に女優として活動後、プロレス入り。人気選手となり、スターダムでエースになる。ドキュメント映画「がむしゃら」ではその波乱万丈な半生を告白。喧嘩試合の後遺症で視力を失い、2015年12月23日、後楽園ホールで引退
出典: http://archive.fo
世Ⅳ虎(現 世志琥)
本名:平野芳子。家出や喧嘩で度々補導されるヤンキーになる。ブログを通じて風香にスカウトされ、スターダムに入団。王者になるが、安川との喧嘩マッチで批判を浴び、精神的に追い詰められ一度引退したが、2016年SEAdLINNNGに入団。リングネームを“世志琥”に改め復帰。
出典: http://wwr-stardom.com
事故というより事件といえるリング禍がありました。
2015年2月22日後楽園ホールで行われた、スターダムの興行において、ワールド・オブ・スターダムの王座戦の安川悪斗VS世IV虎との対戦は、試合前から不穏な空気が流れました。元々犬猿の仲といわれる2人でしたが、「プロレス」の試合が成立せず、顔面を殴りあう格闘技ともいえない喧嘩マッチとなり、大半が世IV虎が一方的に安川を殴打。セコンドの木村響子がリングにタオルを投げ入れるまで続けられました。安川は頬骨、鼻骨、左眼窩底骨折、両目の網膜振盪症の大怪我を負い、片目が失明して引退に追い込まれました。
元々、「安川嫌い」を公言していた世IV虎による公開処刑のような試合でした。
試合後の世IV虎は罪の意識も無く、笑みを浮かべていたことに批判が殺到しました。
安川はこの試合の経緯について以下のように述べています。
「話や練習に付き合ってもらえなくて、気に食わない存在なんだろうとは思ってました。どう接していいか分からなかった。向こうが今、どう思っているのか気にはなりますけど…」
「レスリングから始めるつもりだったんですけど、相手が動いていなくて。近づいたら『来いよ』と。それでロシアンフックを首に打ち込んだら、いきなり顔面パンチが来たので『やらなければやられてしまう試合なんだ』と覚悟が決まってしまった。鼻血が止まらなかったので折れてるのかと思いましたが、1分や2分で終わってしまっては申し訳なくて…」
高山善廣 自らの回転エビ固めでリング禍
高山善廣
「プロレス界の帝王」1992年UWFインターナショナルでデビュー。2m近い身長とプロレスラーらしい風貌で参戦した各団体で存在感を示す。総合格闘技でもドンフライとの壮絶な殴り合いは語り草。2004年に脳梗塞を発症し長期欠場をしたが、復帰後も各団体で暴れていた。
出典: http://www.huffingtonpost.jp
2017年5月4日、DDT豊中大会にて、HARASHIMA&高尾蒼馬&ヤス・ウラノVS高山善廣&樋口和貞&勝俣瞬馬の試合中、高山はヤス・ウラノに前方回転エビ固めをかける際に頭部を強打し、リングに倒れ動けなくなりました。
試合はウラノのTKO勝ちとなり、高山は大阪市内の病院に搬送され、手術を受けましたが良化傾向が見られず、呼吸もできない上に心臓停止のトラブルも発生していたことや、現在は関東の病院に転院し人工呼吸器も取り外されるようになったが、頸髄完全損傷で現状では回復の見込みがないことが明らかにされました。
回転エビ固めは基本は危険の無い技ですが、2mもの巨体で体重が首に乗ってしまったら、門恵美子選手の事故と変わらないような、危険な技を自らにかけてしまったことになります。
回転エビ固め
出典: http://takoyakimachine.com
相次ぐプロレス事故 安全対策は?
ここでは紹介していませんが、プロレスでは練習中での死亡事故、選手生命を絶たれる大事故は後を絶ちません。「リングで死ねたら本望」というプロレスラーは昔から多かったですが、リング禍で死なれた周囲の選手や関係者、そして訃報を聞くファンにはこれほどショッキングな話はありません。技をかけたほうの選手も罪悪感からトラウマになって制裁を欠く原因にもなります。
こうして列挙すると、リング上での死因や引退の原因となるのは、ボクシングや格闘技とは異なり、脊髄を損傷してしまうことが多いようです。つまり頭から落ち、首に負担のかかる技が原因です。
しかも日頃首を鍛えている強い選手ですら、大きな事故に巻き込まれています。
三沢光晴選手のようなベテランから、門恵美子選手のような新人までいるということは、鍛錬やキャリアや技術や若さをもっても、不可避では無いかと思われます。
それらの技を無くしてしまうと、プロレスの醍醐味が半減してしまうのではという意見もあるかもしれません。
そしてハヤブサの動画にあるように、事故後に、レフェリーなどが無理やり起こそうとしてしまっていることもあり、医学的な知識など講習を義務付ける必要がありそうです。
それらの事故のリスクの回避のため、試合内容や見せ方や事故対応などを含め、関係者は日本だけでなく、アメリカやメキシコや欧州も含めて対策を練る必要があるかもしれません。