五・一五事件を分かりやすく解説!なぜ犬養毅は暗殺されたのか?
犬養毅が暗殺された五・一五事件は有名ですよね。 この犬養毅が係る五・一五事件の後には,二・二六事件も起こったので、混乱してしまう人も多いのではないでしょうか。 今回はそのような犬養毅が暗殺された五・一五事件をわかりやすくご紹介したいと思います。
目次
- 1五・一五事件は犬養毅の暗殺事件とは?
- 2五・一五事件をわかりやすく説明すると?
- 3なぜ犬養毅は暗殺された?暗殺の理由は?
- 4犬養毅の暗殺の真相
- 5犬養毅の暗殺後の五・一五事件の首謀者らの処刑
- 6五・一五事件の後に起きた二・二六事件
- 7五・一五事件と二・二六事件の共通点は少ない
- 8五・一五事件と二・二六事件の共通点の違い
- 9二・二六事件では昭和天皇が大きく関係
- 10勘違いによって二・二六事件という暗殺事件発生!
- 11昭和天皇は大量暗殺に激昂
- 12二・二六事件後で暗殺した青年将校の処刑
- 13【犬養毅の暗殺】五・一五事件を簡単にまとめる
- 14【犬養毅の暗殺後】二・二六事件を簡単にまとめる
- 15「番外編」二・二六事件首謀者が後押し!
- 16「まとめ」犬養毅の暗殺は事故のようなもの
五・一五事件は犬養毅の暗殺事件とは?
日本史の本にも載る「五・一五」の犬養毅暗殺
テスト問題にもなることがある事件
犬養毅の五・一五事件と言えば、日本史や社会の教科書に載っており、テスト問題にもなることが多いですよね。
一般的には犬養毅の暗殺は1932年年に起きた反乱事件なのですが、5月15日に事件が起きたことから五・一五事件と名付けられたと言われています。
しかし、五・一五事件の後1936年には犬養毅の暗殺をした時のように青年が将校達が2月26日にクーデターを起こしたため二・二六事件と名付けられました。
この二つの事件の名前や青年将校たちが起こした事件ということで、混乱してしまう人が多いです。
今回はそのような五・一五事件や二・二六事件をわかりやすくご紹介したいと思います。
【文系学問】1932年、犬養毅首相が暗殺されわが国の政党政治の終わりを告げた事件といえば五・一五事件である【○】
— サトウ (@ox_q_) December 17, 2017
五・一五事件をわかりやすく説明すると?
海軍が首相・犬養毅を暴力で暗殺した事件
当時最高の武力で暗殺
五・一五事件をわかりやすく説明すると、1932年に起きた首相・犬養毅の暗殺で、犬養毅は海軍の青年将校たちに暗殺された事件となっています。
この暗殺は射殺になっているのですが、海軍の青年将校たちは当時最強の武器でもあった銃や爆弾を所持して暗殺したそうです。
5W(いつ、どこで、誰が、なぜ、どのように)で言うと次のようになります。
いつ:1936年5月15日
どこで:首相官邸応接室
誰が:海軍の青年将校が
なぜ:前首相に対して不満を持っており、その不満を当時の首相である犬養毅にぶつけた
どのように:首相官邸に乱入して銃で射殺
このようになっています。
●犬養毅
— 基礎知識編 (@i_yukun) December 16, 2017
1931年、犬養内閣を組織。蔵相には高橋是清をあて金輸出禁止の断行・赤字公債の発行等の積極財政を実地したが五・一五事件で暗殺される。
なぜ犬養毅は暗殺された?暗殺の理由は?
五・一五と犬養毅の関係
犬養毅の暗殺理由は「海軍とのすれ違い」
先ほど少しご紹介しましたが、犬養毅が暗殺された理由は「海軍青年将校たちとの信条上のすれ違い」から起きたようです。
犬養毅が暗殺された原因ですが、当時の犬養毅は話し合いで解決できる可能性があるとして、最後まで海軍の青年将校たちに「話せばわかる」と言っていたようです。
暗殺された犬養毅首相は上記の写真のに見られるように、しっかりとした容貌の確固たる信念を持つ人物であったので、多くの人々から支持されていた首相のようでした。
なぜ暗殺されたのかと言う理由は、前首相の「若槻禮次郎」の政策があまりいい印象を持たれてっていなくて、多くの人々が不満を持っていたという状況が一つありました。
特に不満を強く感じていたのは当時の海軍や陸軍であり、日に日に当時の若槻禮次郎首相への不満が溜まっていき、暗殺まで計画されたとされています。
しかし、その後の民政党の選挙に敗退した首相若槻禮次郎は、そのままあっけなく退陣しました。
そして、この後に新しくなった首相に選出されたのが「犬養毅」です。
本来は前首相に対して不満を鬱積していた軍部は、若槻禮次郎を暗殺する予定でしたが、選挙に敗退し、氏が退陣したため、この暗殺計画はあえなく消失したと考えられていました。
しかし、その鬱積した不満を発散できなかった海軍の青年将校たちはその矛先を、そのまま現首相に向けて、官邸に乗り込んで犬養毅首相を暗殺したのです。
犬養毅が「話せば分かる!」って言って暗殺されたという歴史を考えると、やはり話が通じない相手には何も通じないということが分かる。
— 金正男bot (@BotPrinceMasao) December 1, 2017
犬養毅の暗殺の真相
五・一五事件と犬養毅の全貌とは?
すれ違いがなければ起きなかった事件
出典: http://hal1.net
犬養毅首相が暗殺された事件は、大きく日本国内の中でも話題となり上記の写真のように、新聞でも大きく報道されました。
五・一五事件の真相・全貌が次の通りです。
1930年頃当時は世界恐慌ともあって、不景気が続き国民はとても苦しい生活を余儀なくされていました。
当時は若槻禮次郎が首相を務めていたのですが、ロンドン海軍軍縮条約を締結し民衆から多くの不満を持たれていました。
この時海軍の青年将校たちは若槻禮次郎に対して憤りを感じ、若槻禮次郎の暗殺事件を企てます。本来は海軍の青年将校たちが若槻禮次郎を暗殺して終結するはずでした。
しかし、若槻禮次郎は当時の選挙で大敗し、首相に返り咲きできせんでした。
この時に新しくなった首相が「犬養毅」です。
本来はこの時に計画の目標が無くなっているので、暗殺計画も無くなるかと思われましたが、この計画の立案者で首謀者でもある海軍中尉・古賀清志が中国で戦死しました。
この事態も合わせて海軍の青年将校たちの暴走は止まらず、そのまま犬養毅を暗殺するために首相官邸に乗り込んで銃で暗殺したのが事件の真相です。
当時、犬養毅は新首相となり政策面も期待されていたため、多くの人々から注目されていたのですが、このような信条のすれ違いからあえなく暗殺されてしまったのが、五・一五事件の真相と言われています。
犬養毅は日本の歴代総理大臣の中で数少ない暗殺された人物の一人です
彼の命日が私の誕生日
— 木葉けい (@kxkei) October 27, 2017
犬養毅の暗殺後の五・一五事件の首謀者らの処刑
五・一五で犬養毅を殺したのにも関わらず死刑はない
嘆願書と11本の指
五・一五事件の真相をご紹介しましたが、五・一五事件を起こした海軍の青年将校たちは犬養毅暗殺後に逮捕され、刑を受けることになりました。
五・一五事件を起こし暗殺まで企てて実行した海軍の青年将校たちの処刑は当然と思われたのですが、この時多くの嘆願書が集まったことに加えて、切断された11本の指が送られてきました。
なぜ11本の指が送られたのかと言うと、「11」は実行犯の数とされています。
この事件に関して民衆の同情が多かった事と共に、多くの嘆願書が集まったことや、指が送られてきたこともあり、処刑された被告の海軍将校はいなかったとされています。
515事件で11本の指が送られたってマジな話だっけ?
— 丸八ボンバー (@circlehachi) September 6, 2012
五・一五事件の後に起きた二・二六事件
時系列的には「二・二六事件」は後ろ
五・一五事件の真相をご紹介しましたが、後に五・一五事件と同じような事件で、上記の写真の軍部の青年たちによる暴走「二・二六事件」が起きました。
このことからもわかるように、二・二六事件も青年の軍人たちによって起こった事件なのです。
そのため、教科書に載っている写真や事件の名前、実行犯がどちらも軍人ということから、混同してしまう人が多く、テスト問題などに出たときにケアレスミスにより不正解をなる人が多いようです。
まれに教科書の写真だけで事件の名前などを覚えている人がいますが、写真はテスト問題によって変えられる場合があるので、写真だけで事件の内容などを覚えるのはあまりお勧めしません。
1928~29年に検挙事件、1932年の515事件で現職の総理を1人殺害、1936年には226事件で複数の政治家殺害してだんだん軍部系の起こす事件が激しくなってきて、誰も軍部に逆らえないような空気になって戦争に進んでったイメージかなあ
— 虎ものがかり🐯 (@toramonogakari) November 27, 2017
五・一五事件と二・二六事件の共通点は少ない
名前が似ているだけという認識が覚えやすい
先ほどもご紹介したように515事件と226事件は似ている部分が多いと考えられることが多いですが、実は共通点は少ないとされています。
というのも、名前は515事件や226事件のように、起こった当時の日付から名づけられていますが、共通点はこの名前の部分や実行犯が青年の軍事人たちによる殺害事件だったということぐらいです。
226事件では目的がはっきりとしており、そのまま目的である人物を殺害していきました。
226事件は2月26日に行われたのですが、515事件とは違い2月29日までに広がり、1日では収拾がつかなかったようです。
急に515事件気になったり226事件気になったりで調べたけど、歴史は基本難しいけど、幕末以降の歴史は、わたしには複雑すぎて理解出来なくて、夜中に調べるものじゃねぇなと思いました。
— みゆみ (@yun7948) October 21, 2017
五・一五事件と二・二六事件の共通点の違い
五・一五と二・二六の違いは「3点」
3点の違いをしっかりと押さえて
515事件と226事件は勘違いしてしまう人が多いのですが、次の真相・事件の違いでもある3点をしっかり把握しておけば間違えにくいとされています。
その3点が次の通りです。
①515事件は「1932年」、226事件は「1936年」
②515事件は「海軍の青年将校」、226事件は「陸軍の青年将校」
③515事件は「内閣政府に対しての暗殺事件」、226事件は「昭和天皇の周りの政治家に対しての暗殺事件」
このような3点となっています。
違いをはっきりさせておくと混乱しにくいので、この3点の違いをはっきりさせておけばテスト問題などに出た際に間違えにくいです。
1932【五・一五事件】
— 日本史 (@txc_jhs) December 17, 2017
海軍の青年「犬養毅」を暗殺
1936【二・二六事件】
陸軍の政治家を殺害
岡田啓介総理、高橋是清大臣
二・二六事件では昭和天皇が大きく関係
昭和天皇の側近が悪い説
226事件がどういう事件か分からなくなってしまいがちですが、226事件では先ほどご紹介したように、昭和天皇が大きく関わっています。
というのも、226事件の首謀者たちは上記の写真の昭和天皇を崇拝しており、昭和天皇が実は周りの政治家に騙されているのではないのかという考えを持っていました。
そのため、首謀者たちは昭和天皇を守ることと、天皇親政を信じて226事件を起こしました。
昔から226事件の青年将校のように、
「陛下は現実が解ってない!」
「君側の奸に惑わされてる!」
「俺様が諫止してやる!」
みたいな連中が居ますからねぇ。
終戦の日の「宮城事件」もそうでした。
昭和天皇の御聖断を無視してでも戦争を続けようとした連中が居ました。
あのレベルの人たちです。
— 山川大蔵 (@okura_yamakawa) December 4, 2017
勘違いによって二・二六事件という暗殺事件発生!
問答無用で暗殺に
上記の写真がよく二・二六事件の状況として表されることが多いのですが、二・二六事件の真相は次のようになっています。
五・一五事件から3年半後、二・二六事件が起きました。
その二・二六事件とは1936年2月26日から29日の間までに起こった事件で、上記の写真のように、陸軍の青年将校たちによって昭和天皇の周りの政治家たちが殺害された事件です。
この二・二六事件の首謀者たちは皇道派の影響を大きく受けており、クーデターを起こしました。
わかりやすくご紹介するとこのようになっているのですが、さらに具体的に真相をご紹介すると次のようになっています。
当時、陸軍の中でも昭和天皇を崇拝する人達が多く皇道派という考えを持っている人が多かったのですが、この皇道派の人たちは昭和天皇は実は周りの政治家たちによって都合の良いように扱われている状況で、周りの政治家が現在の不景気である状況を作っていると考えていました。
そのため、悪い政治家たちを暗殺して昭和天皇自らが政治をしていくことによって日本は生まれ変わると首謀者たちは考えたのです。
この計画を企てた首謀者たちとされるのが「陸軍の青年将校」です。
実際に、陸軍の青年将校たちは上記の写真のようにクーデターを起こし、各地で多くの政治家たちを殺害して昭和天皇に自ら政治をするように懇願、しかし、昭和天皇をこれを拒否し、首謀者たちはあえなく捕まってしまい処刑されました。
二・二六事件はこのような真相となっています。
このことからもわかるように、二・二六事件は昭和天皇が政治をしてくれることによって日本は生まれ変わると期待した陸軍の青年将校たちによって起こった事件だったのです。
226の時に昭和天皇が「父祖以来の立憲精神に基づき」ってんで北一輝の兜をとる若殿になっちゃうのは、肝心の「王」の方は欧米的な立憲君主制を真に受けていたっていう悲劇だよね。それを「君側の奸」の方もうまく利用する。
— Un ami (@caesar_21c) November 6, 2017
昭和天皇は大量暗殺に激昂
昭和天皇の望んでない未来
先ほど真相をご紹介したことからもわかるように、このような大量殺戮事件については昭和天皇が激昂したことは、陸軍の青年将校たちにとっては計算外の状況でした。
昭和天皇は、軍隊が自分の意思とは無関係に行動し、勝手にクーデター、反乱を起こしたためこの陸軍の青年将校たちを反乱軍とみなしたのです。
そのため、命令でもなく勝手に動いているものを反乱軍とし、抵抗する者は容赦なく逆賊とみなして射殺・処刑するように命じたのです。
勝手な勘違いによって行動した陸軍の青年将校たちですが、自分の信じた人に逆賊と見なされ処刑を下された様子を考えると、当時の悲劇としか言いようのない状況でした。
226の場合は昭和天皇を怒らせたのがすべての敗因かと…。担ぎ上げるつもりの相手から徹底鎮圧の命令ですからねぇ…
— Kanorin_EX (@ant_onion) October 28, 2017
二・二六事件後で暗殺した青年将校の処刑
二・二六事件の死刑は?
ほとんどが処刑された
反乱軍として見られた陸軍の青年将校たちですが、昭和天皇が動いたことによって多くの軍事力が組織され、すぐに反乱軍は鎮圧されました。
この時一部の青年たちは自決をしたのですが、首謀者となる人物たちはほとんど射殺され処刑されており、実行に移った青年たちも非公開裁判などで死刑判決を余儀なくされ、処刑されていきました。
このため、二・二六事件を起こした青年たちはほとんどが処刑されたのです。
二・二六事件で盗聴されたとされる電話
傍受された通話音声
実はこの二・二六事件の首謀者ともされる人物たちの電話は実は盗聴されていたと言われています。
下記の動画はその首謀者たちでもあった人物の「傍受された通話音声」とされ、首謀者の肉声が現在でも残っているとされています。
この盗聴は電話と交換機を接続して盗聴したとされています。
【犬養毅の暗殺】五・一五事件を簡単にまとめる
515事件とは!
五・一五事件と二・二六事件についてご紹介しましたが、理解していただけましたでしょうか?
最初にもご紹介したように、五・一五事件を簡単にするとこのような事件です。
いつ:1936年5月15日の昼
どこで:首相官邸の応接室に移動した後
誰が:当時の政治に対して不満を抱えていた海軍の青年将校が新首相である犬養毅に向けて
なぜ:若槻禮次郎が敗退したので青年たちが暴走して犬養毅にぶつけた
どのように:首相官邸に入り暴動を起こして銃で射殺
五・一五事件は不満を抱えていた海軍の青年たちによる反乱でしたが、これは本当に少しのすれ違いによった事件で、このすれ違いさえなければ起こらなかっただろう事件とされています。
そのため、犬養毅の暗殺は非常に残念な反乱と言えます。
日本の中で数少ない暗殺事件なので、このような点さえしっかりと把握しておけばテスト問題などでも間違えにくいです。
【犬養毅の暗殺後】二・二六事件を簡単にまとめる
226事件とは!
次は二・二六事件について簡単にまとめたいと思います。
二・二六事件を簡単にまとめると次のようになります。
いつ:1936年2月26日
どこで:首相官邸や警察庁、陸軍省等各地
誰が:陸軍青年将校の皇道派
どのように:クーデター
なぜ:昭和天皇の天皇親政を求めて
昭和天皇が新しい国を作ってくれると信じたが故に起きたこの事件ですが、あえなく計画は失敗し、ただただ大量の死者が出てしまっただけの事件となったというのが真相のようです。
「番外編」二・二六事件首謀者が後押し!
恋が成就するという噂も
番外編になるのですが、実は二・二六事件の処刑された首謀者たちの慰霊碑には不思議な力が宿っているとされています。
その場所とされるのが上記の写真の場所なのですが、この慰霊碑の前で告白すると、無念に散っていった首謀者たちが背中を押してくれて恋が成就すると言う噂があるのです。
まさに都市伝説のような話ですが、このような噂は現在の高校生の間でも流行っているので、一種のパワースポットとなっています。
渋谷の226の慰霊碑がいまや JKの間では「恋が叶う」パワースポットになっているっていう、なんかおかしい現在 #探検バクモン
— bit_tours (@bit_tours) June 21, 2017
「まとめ」犬養毅の暗殺は事故のようなもの
今回は五・一五事件を始めとした、日本の歴史についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
日本は他の世界と比べるとまだまだ歴史が浅い国とされていますが、日本で起こる歴史は非常に濃厚な物が多いとされています。
多くの場合が日本がもっと良くなるために起こした事件であることが多いので、みんな日本を愛していたと言えます。
今回ご紹介した内容はぜひ皆さんのご参考にしていただけたらと思います。