『ノモンハン事件』を分かりやすく解説!その真実とは?
ノモンハン事件は、歴史的な大敗を喫した日本軍とソ連軍との、事件とは名ばかりの国家間戦争でした。第二のノモンハン事件を起こさないためにも、事件の詳細を知ることは重要だと思います。領土争いなんかで命が失われる事件は、二度と起こらないで欲しいですね。
目次
ノモンハン事件の真実:事件とは名ばかりの戦争だった!
日本とソ連が戦いました。
ノモンハン事件の概要
ノモンハン事件は、1939年5月に日本とソ連が戦うことになった事件です。
事件が起こったのは、モンゴルの国境付近。
日本の関東軍とソ連軍が、お互いの領土を争って起きた事件です。
事件の結果、日本軍は大敗し、南進論に転じないといけなくなりました。
元々は、日本の関東軍が、ノモンハンへの軍事行動を展開したのがきっかけです。
当時モンゴルを支援していたソ連軍との戦いになり、日本は大敗したことで、休戦協定を締結したことで終わりを迎えます。
この事件でソ連に大敗した日本軍は、装備の強化をすすめることになり、ノモンハン停戦協定成立直前の9月1日直前に、ドイツがポーランドに侵攻。
そうして、第二次世界大戦が起きます。
日本軍のこの動きもまた、第二次世界大戦の布石だったのかも知れないですね。
ノモンハン事件の真実は、今どのように日本に伝わっているのでしょうか?
以下に、真実を伝えて行きたいと思います。
石井 四郎:日本の陸軍軍医。731部隊の創設者として防疫活動に従事し、目覚しい功績を残した。鉄資源に乏しい日本に有効として細菌兵器運用を提唱し、ノモンハン事件では給水活動に携わった。戦後は従軍時の研究成果を交渉材料とした米国との取引により、731部隊全関係者の戦犯免責を実現した。
— 無駄情報bot (@snobbbish) September 21, 2017
ノモンハン事件の真実:実は国家間戦争だった?
勝利したソ連の方が被害が大きかった?
ノモンハン事件は、ソ連との国家間戦争だった?
事件と言うと、何だか戦争と言う気がしませんが、実はノモンハン事件は、ソ連との間に起きた国家間の戦争だったんですね。
局地戦ではありましたが、当時の最新兵器が使われたりなど、かなり大規模な戦争だったみたいです。
日本の関東軍は、ソ連に対して善戦はしましたが、当時のソ連の近代兵器には叶わず、歴史的な大敗を喫しました。
この戦闘の敗北により、当時の日本軍は、進路の変更を余儀なくされ、南進に切り替えたと言います。
当時の日本軍は、日本の生命線は南方にあると進路を余儀なくされましたが、その後第二次世界大戦が起こったことからも、このノモンハン事件は、世界大戦の前触れだったのかもしれないですね。
大東亜戦争以前から、日本軍上層部には相当数の売国奴が潜んでいたのでは?辻政信が、蒋介石の密偵だったというのは全くの絵空事とは思えない。ノモンハン事件での辻の、脳天気ぶりは想像を超えている。日本人に歴史の再学習が必要だとするなら、大東亜戦争に突入する以前のノモンハン事件からだろう。
— qthulhu (@zgwaht) September 7, 2017
ノモンハン事件の真実とは?事件の経緯
第一次では善戦?
ノモンハン事件は、第二次で壊滅?
ノモンハン事件が始まったのは、1939年の5月からですが、実はこの事件は長期的な一面を持っていて、第一次と第二次の期間に分かれて起きた事件なんですね。
第一次の事件(1939年5月から6月にかけて)と第二次の事件(1939年7月から9月にかけて)の事件と、大きく分けて二度の戦争が行われました。
第一次では五分五分の戦いを見せた日本軍でしたが、第二次では壊滅的ダメージを受けて、敗退。
第二次では、第23師団の76%が!
他にも、精鋭と呼ばれていた第26連隊の91%が死傷するなど、大ダメージを受けました。
でも、実はソ連の方がより被害が大きかったと言う話もあります。
とは言え、日本の関東軍が大敗を喫したのは間違いなく、北に進軍する予定だった陸軍は、この事件後、南進することを余儀なくされました。
場所は、モンゴルの国境付近でしたが、そこを支援していたソ連との間で戦いが起きたわけですね。
戦車にしても、航空関係にしても、当時のソ連軍の装備には敵わなかったわけです。
その後すぐに第二次世界大戦が起きたのは、もしかしたら、偶然ではないのかも知れないですね。
ノモンハン事件で発覚した対戦車戦闘力の低さを改善するため、従来の57mm戦車砲から装甲貫徹力に優れた47mm戦車砲に換装したのが新砲塔チハであります。しかしこれが前線に配備される頃、すでに相手できる敵はいなかった……無念!(あきつ) pic.twitter.com/xgZoD9v0HV
— 陸軍艦娘の偏見で語る陸軍bot (@akimaru_IJA) September 20, 2017
ノモンハン事件の真実:現場となった場所と地図
地図で見ると、場所も分かりやすいかも?!
事件が起きた場所を、地図で見てみると?
ノモンハン事件では、モンゴルの国境付近で起きた戦争ですが、地図を見ると場所もわかると思うのですが、モンゴルの国境をめぐっての争いが、事件の前にあったそうです。
というのも、モンゴルの国境を日本側は「ハル河」と主張していたのに対し、ソ連側は「ノモンハン」としており、かなり前から問題があったようなんですね。
国境の場所を巡っての争いで、あれだけの死傷者が出たというのは本当に残念なことですね。
地図を見た限りでは、そんなに離れてもいない場所なのですから、両方の国で折り合いをつけるとか無理だったのでしょうか?
確かに地図に記入する時に、自分の国であると表記できるかどうかも問題になるかも知れませんが、地図に自国と記入出来たとしても、その場所に住んでいる人はどうなるんだ!と思わずにもいられません。
日本でも北海道の近くの4島の返還を求めたりしてますが、地図上で日本の国になったとしても、昔からその場所に住んでいるロシアの人には、関係ない話で。
そう考えると、日本でも昔から領土争いをしているわけですし、地図や場所がそんなに重要だったんでしょうか?
私には、とんと理由がわかりません。
当時赤軍大勝とされたノモンハン事件に関してソ連崩壊後の情報公開で実は赤軍の被害の方が大きかったこととわかったのは以前から知っていたが、その件で関東軍を再評価する人がいることを今日初めて知り、失笑した。
— 河原 (@skycrawler1217) January 19, 2017
ノモンハン事件の真実:ソ連の大反撃!
人命が軽んじられたソ連
ノモンハン事件で、ソ連は焦っていた?!
ソ連は勝ちはしましたが、日本軍の猛攻撃に、実は焦っていたと言います。
1939年5月に、日本軍とソ連軍は衝突するわけですが、日本軍がソ連の戦車や航空機に、全く敵わなかったというのは、ウソだったと最近の研究でわかってきました。
というのも、日本軍は、ソ連の戦車や装甲車などを、かなりの数破壊しています。
戦車の夜襲は、史上初とのことで、これにもソ連はかなり参っていたわけですね。
当時のソ連は日本に大打撃を与え、ポーランドに進行予定だったため、予想外の日本軍の猛攻に焦っていたんです。
日本に潜入していたゾルゲ諜報団は、、「日本軍の先手をとって、後の憂いにならないように徹底的に叩くべき」と進言したといわれ、そこからソ連の猛攻撃が始まりました。
当時のソ連軍は、物資の補給がうまくいかず、苦労したと言います。
ということで、日本は惨敗ではなく、惜敗で、しかもかなり善戦していたということなんです。
平沼騏一郎 (挙国一致) 1939・国民徴用令(←国家総動員法)・ノモンハン事件vsソ連・独ソ不可侵条約→「欧州情勢は複雑怪奇」として辞職
— 歴代内閣総理大臣 (@prime_ministerj) September 20, 2017
ノモンハン事件の真実:実はソ連の方が被害大だった!
勝利はしたものの、甚大な被害が出たようです。
ノモンハン事件:ソ連の被害は甚大?
ノモンハン事件では、日本軍が壊滅的ダメージを受けて大敗しましたが、当初、ソ連では高い装備力や統率力により、被害は少なかったと言われていました。
ですが、最近の研究でわかったことなのですが、ソ連軍が他の軍隊と破れた結果などを研究していくなかで、このノモンハン事件では、ソ連軍もまた壊滅的なダメージを負っていたことがわかりました。
第一次と第二次に分かれたノモンハン事件では、ソ連側の死傷者数は25000名以上にものぼり、単に兵隊数が勝っていただけで、被害は日本とは比べ物にならないくらい、甚大な被害を負っていたらしいんです。
人的被害だけでなく、戦車などの装甲車両は400両が壊され、航空機は350機が破壊されたとのことで、日本には辛勝だったようなんですね。
日本が惨敗したという歴史が残っていますが、実は日本軍は、大国であるソ連に対して、健闘していたことがわかります。
とは言え、日本軍がソ連に負けたという事実には変わりがありません。
I-15bis
— 大日本帝國陸軍戦闘機bot (@IJA_Fighter_bot) September 20, 2017
ノモンハン事件の際に鹵獲したもの。陸軍は本機をただ調査しただけでなく、ソ連領内の動向を探るために塗装をオリジナルのままにした上で偵察機として使用した。 pic.twitter.com/8Bi8zoJNNQ
ノモンハン事件の真実:事件から得た教訓と隠ぺい
ソ連は教訓を、日本は隠ぺいを
ソ連は教訓にし、日本軍は真実を隠蔽した?
ノモンハン事件で、犠牲を出しながらも戦勝したソ連は、この事件を教訓にし、日本軍のさまざまな先方も取り入れたとのことです。
もちろん!戦車や航空機などの兵器も改良し、後の戦争に役立てたと言います。
1941年6月でのドイツとの戦争でも、日本軍との戦闘による戦法や戦い方をを教訓にしたお陰で、勝利を収めたといっても過言ではありません。
対して、日本はノモンハン事件での犠牲者など、もっと言えば、大敗理由を国民に隠ぺいすることにしました。
事件で帰還した兵隊たちにもかん口令を敷き、ノモンハン事件で負けた事実を隠蔽することに腐心します。
しかも戦闘に参加した将校には自決を迫り、作戦立案者の更迭など、ともかく事件をなかったことにしようとしたんですね。
ノモンハン事件で得た戦法や航空技術、戦車の使い方などを、教訓に出来ていれば、その後の戦争にも役立てられていたはずなのに、当時の政府の行為は、今では間違っていたと言えると思います。
・ノモンハン事件:軍事衝突の規模に対して事件というかなり控えめな呼ばれ方をされる紛争。日本、ソ連、モンゴル、満州国が参加した。日本側の拠点にハイラル区があるがゼルダ姫やリンクは出てこない
— ウォーゲームクソ解説bot (@wargame_bot) September 20, 2017
ノモンハン事件の真実:被害の詳細
被害は甚大でした。
人的被害のほかに、多くの戦車や航空機も大破した
ノモンハン事件では、人的被害はもちろんのこ、多くの戦車や航空機が被害にあいました。
以下に両軍の被害状況をまとめますと。
●日本軍の被害詳細
戦死者は、8632名
負傷者は、9087名
全損したのは、戦車8両に、装甲車7両、航空機の損害は、157機
かなりの被害が出たのがわかりますね。
対して、ソ連軍の被害の詳細はと言いますと。
●ソ連軍の被害詳細
戦死者は、9703名
負傷者は、15952名
全損したのは、戦車253両に、装甲車144両
航空機の被害は、損害200~250機
前述したソ連軍が被害が大きかったというのは、これらの事実からもわかりますね。
ならなぜ、日本軍は負けてしまったのか?
それは、未だにはっきりしたことはわからず、謎のままです。
沖縄の終戦直前も激烈でしたが、ノモンハン事件後の満州、そして終戦前後の朝鮮半島の悲惨は、もしかしたらそれ以上だったのではないでしょうか。(犠牲者の)規模においても、被害が継続した期間についても。
— 桃ダンボ (@u_dumbo) April 24, 2017
ノモンハン事件の真実:辻政信という人物
国会議員にもなりました。
ノモンハン事件に深く関わった人物として、陸軍大佐にまで昇進した辻政信がいます。
辻政信は、「満ソ国境紛争解決要綱」として、以下のような方針を発表しました。
●国境が決まっていない地域は、現場の指揮官が国境を設定しても良い
●防衛上必要があると思った場合は、ソ連軍に侵攻しても良い
など、かなり無茶すぎる方針を出したのが、辻政信という人物だったんですね。
この辻政信という人物は、ノモンハン事件が起きる前、太平洋戦争でも参謀を引き受けており、太平洋戦争の後、逃げ伸びて、国会議員にもなっています。
ノモンハン事件で、辻政信が提出した要綱は、当時戦争を避けるために苦心していた日本の情勢を全く無視したものでした。
辻政信により、この要綱が出された二週間後、ついにノモンハン事件が勃発してしまいます。
名だたる将校が自決を迫られた中、辻政信は責任を取らなかったのではないか?と噂されていましたが、一応責任は取らされたようで、異動を命じられています。
左遷とも取れますが、上司として、信頼の厚い人物だったのかもしれません。
作戦の神様と呼ばれていた時期もあったようですが、日本軍が敗退したものの、ソ連にダメージを与えた裏には、辻政信の案があったのかも知れませんね。
NHKスペシャルのインパール作戦は壮絶な話だった。最後の斎藤元少尉の言葉が重すぎた。今回の牟田口にしろ、ノモンハン事件等の辻にしろ、無謀な作戦を立案した当時の将校は責任なんてのは感じなかったのだろうか。。
— グラッデン (@yoshi141) August 15, 2017
ノモンハン事件の真実:捕虜の扱い
日本と海外の捕虜の扱いには違いが…!
ノモンハン事件に限らないことですが、日本では捕虜の扱いが世界とは違い、問題が起きたこともあります。
と言うのも、日本軍は、ソ連に捕えられた捕虜に対して、こんな対応を決定します。
それは簡単に言うと、「捕虜になった者には容赦するな!捕虜を厳しく罰せよ!」
こんな内容でした。
捕虜になるくらいなら戦死せよ!というのは、後の世界大戦でも行われてきた対応ですが、捕虜になった人物に対して、間違った対応をしていたとしか考えられません。
ただ、この対応はソ連でも同じだったそうです。
敵国よりも自軍が怖いなんて、性質が悪いですよね?
そんな対応をしていたからこそ、日本では、戦争時、自決などの選択が迫られ、多くの優秀な兵士が亡くなっていくんですね。
捕虜の対応もそうですが、当時の日本軍は何かおかしい所もあったと思います。
そして、結局ノモンハン事件を教訓にしなかったことで、後の戦争でも大敗を喫するわけです。
ノモンハン事件で捕虜になったソビエト兵とタバコの火を分け合う日本兵(from Reddit) pic.twitter.com/8hjeNdvNV0
— いわき (@yarukiiwaki) June 18, 2017
司馬遼太郎は、なぜ書くことをやめたのか?
司馬遼太郎が執筆を止めた理由とは?
司馬遼太郎がノモンハン事件の執筆をしなかったのは?
司馬遼太郎さんといえば、数々のドラマや映画の原作を手掛けられていましたよね?
でも、ノモンハン事件については、途中で書くのをやめたと言います。
それは、なぜなんでしょうか?
書けば大ヒット間違いなしだったのでは?と個人的には思いますが、きっと司馬遼太郎さんには、何か思う所があったのかも知れません。
まず、日本が勝利しなかったことを書くことに、どこかから圧力がかかったのかも知れないですし、中には司馬遼太郎さんのことを非難し、ノモンハン事件は日本の大勝利だったなんて方もいます。
でも、歴史的事実では、日本軍がノモンハンに事件に勝利したことはありえません。
ただ、司馬遼太郎さんは、愛国者だったそうです。
だからこそ、ノモンハン事件で、日本が勝利せず、大敗したという事実に目を向けたのかも。
司馬遼太郎さんは、その後明らかになった事実。
前述もしましたが、ノモンハン事件でのソ連の勝利は、大勝利ではなかった。むしろ損害が大きかったという事実があります。
結局司馬遼太郎さんが、ノモンハン事件を取材していくうちに、幹部から望む情報が得られなかったことに、失望されたのでしょう。
当時は、かん口令まで敷かれていたわけですし。
ノモンハン事件を司馬遼太郎さんが、もし書きあげていたとしたら…。
もしかしたら、世間の目も、事件に注がれていたのかも知れませんね。
司馬遼太郎がノモンハン事件の取材で稲田正純って当時の参謀を「こんな奴が作戦課長だったのかと、心底あきれた」とこき下ろしてたが、
— gokrak (@tadasher) March 14, 2017
苗字だけ同じで血は繋がってないようだが、上記の感想を作戦課長を防衛大臣に置き換えて後世、稲田朋美の感想になるだろう、
ノモンハン事件では、日本が大敗したという事実、そしてソ連も大被害を受けていたという事実が明らかになりました。
国境と程遠いモンゴルに進軍した日本も悪いですが、ソ連も同じように悪かったのでは?という気がします。
モンゴルなどは、自国で他国の軍が戦争を始めたら、本当に大変だったと思います。
どちらにしろ、どちらかの国に占領されることはわかっていたのですから。
戦争は、二度と起こしてはいけないです。
亡くなられた両軍の方の遺族には、本当に痛ましい事件でした。
自国を守るためならいざ知らず、領土に関する紛争で、亡くなられるんて本当にあってはならないと思います。
ノモンハン事件を教訓にして、これからもどこかで領土問題の紛争が無くなることを祈ります。