『下関通り魔殺人事件』の全貌!上部康明の生い立ちやその後も【異常】

1999年のちょうど秋頃、JR下関駅東口駅舎のガラスやドアを突き破り、多くの被害者を殺し、重軽傷を負わせた恐ろしい事件をみなさん覚えていますでしょうか?名前を『下関通り魔殺人事件』。今回は『下関通り魔殺人事件』の概要、犯人の生い立ち等ご紹介します。

『下関通り魔殺人事件』の全貌!上部康明の生い立ちやその後も【異常】のイメージ

目次

  1. 1下関駅を襲った『下関通り魔殺人事件』
  2. 2『下関通り魔殺人事件』の舞台、下関ってどこ?
  3. 3『下関通り魔殺人事件』の概要
  4. 4『下関通り魔殺人事件』の加害者上部康明
  5. 5『下関通り魔殺人事件』の加害者がもつ対人恐怖症とは
  6. 6『下関通り魔殺人事件』犯人、就職後結婚。しかし…
  7. 7うまくいかない人生。『下関通り魔殺人事件』加害者の苦悩
  8. 8自暴自棄になった『下関通り魔殺人事件』の加害者
  9. 9『下関通り魔殺人事件』被害者への賠償金の問題
  10. 10『下関通り魔殺人事件』の逮捕後、裁判
  11. 11『下関通り魔殺人事件』からわかること

下関駅を襲った『下関通り魔殺人事件』

※この記事は猟奇的な内容が含まれますので、閲覧にはご注意ください。

バール

通り魔事件と聞くとみなさんは何を思い出しますか?2008年に秋葉原で起きた『秋葉原通り魔事件』など有名ですよね。『秋葉原通り魔事件』の犯人の動機は労働環境の悪化や、社会的孤立、また自暴自棄になり誰でもいいから殺すというあまりに無責任な思考によるものでした。
人生何事もうまくいかないときはありますが、今回紹介する事件も『秋葉原通り魔事件』のように人生に行き詰まり、JR下関駅東口駅舎にいた大勢の人を恐怖に陥れ、多くの被害者を出し逮捕され、最終的に裁判で死刑判決が出た恐ろしい事件をご紹介します。名を『下関通り魔殺人事件』といいます。

スマホをいじる男性

『下関通り魔殺人事件』の犯人の名前は上部康明といい、彼の人生は大学から狂っていきます。対人恐怖症などの影響で仕事や人間関係がうまくいかず、精神的に病んでしまい、自暴自棄になり、犯行に及んでしまいます。尚、上部康明は犯行前から対人恐怖症でした。
いったいどうして精神を病んでしまい、『下関通り魔殺人事件』を起こし逮捕されてしまったのでしょうか?今回はそんな『下関通り魔殺人事件』の事件の概要や、犯人の動機などについてご紹介していきます。

『下関通り魔殺人事件』の舞台、下関ってどこ?

橋

『下関通り魔殺人事件』の舞台となってしまったのは山口県の下関という場所で、本州の最西端に位置する都市です。昔は西の玄関と言われるほど貿易で活躍していました。また、源義経で有名な海域壇ノ浦など、下関にあります。
JR下関駅は2006年に放火事件も起きており、何かと事件の多い駅です。しかし毎日下関の新たな玄関として、毎日多くの人々に利用されています。
そして1999年9月29日、人々が帰宅し始める午後4時半ごろ、『下関通り魔殺人事件』は起きてしまいました。

『下関通り魔殺人事件』の概要

駅

『下関通り魔殺人事件』の当日のJR下関駅東口では旅行代理店や、帰宅する学生、まだ仕事中のサラリーマンなどで賑わっていました。そんな時突然猛スピードで乗用車が駅のガラスのドアを突き破り、突撃してきました。その後駅構内の売店や食堂などの人が多い所約60m暴走。その際7人を轢きました。改札口付近で車から降り、上部康明はナイフを取り出し、振り回しながら二階のプラットホームに上がり、7人を切りつけました。犯人が駅に突撃してきて約5分後、通報を受けた警察が上部康明容疑者を現行犯逮捕しました。
この『下関通り魔殺人事件』の結果、被害者は5人が死亡、10人が重軽傷を負いました。

『下関通り魔殺人事件』の加害者上部康明

イス

先ほど概要を紹介した『下関通り魔殺人事件』。加害者である犯人の上部康明ですが、上部康明自身はどのような人物なのでしょうか?
『下関通り魔殺人事件』の加害者上部康明は1964年、下関市の豊浦町に生まれます。両親はともに教師で、妹が1人いました。上部康明は地元の高校を出て、一浪したのち九州大学工学部建築学科に進みます。大学に入るまで、熱心に勉強を続けてきた上部康明は「大学では思いきって遊ぼう」と考えていました。ですがいざ大学に入学してみると、「皆が自分のことを嫌っているのではないか」と思い始めます。上部康明は対人恐怖症でした。今後犯人が抱える対人恐怖症が『下関通り魔殺人事件』の動機の原因を作ってしまったといわれています。

『下関通り魔殺人事件』の加害者がもつ対人恐怖症とは

不安

『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明の特徴の一つ、対人恐怖症とは人を前にした際、不必要に不安を感じたり緊張し、嫌がられるのでは、不快に思ってしまうのではないかと思い、極端に対人関係から身を引いてしまう神経症の一種です。具体的には見た目、体型、臭い、しぐさ等が他の人が不快に思うのではないかという恐怖で、愚かにみえないか、場に合ってないのではないかという社交不安障害と似ています。

例えば、人前に出ると汗が大量に出てしまう多汗症や、他人の視線を以上に気にしてしまう視線恐怖症など、種類は様々あり、日本人は特に患者が多く、地域、民族、文化環境において起こりやす精神障害「文化依存症候群」とされています。外国でも対人恐怖症はそのまま「Taijin kyofusho」と呼ばれているほどで、日本では珍しい病気ではありません。

病院

『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明は大学卒業後も、対人恐怖症故「人間関係が嫌」と就職をしませんでした。1987年に心配になった両親が東京の病院に入院させ、「森田療法」という治療を受けさせました。1988年5月には福岡市内の精神病院に入院もしています。
「森田療法」とは日本人が発案した精神医療法で、不安を解消させる外国発療法とは違い、不安を乗り越えるという療法になっています。しかし「森田療法」では『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明の対人恐怖症は治りませんでした。

『下関通り魔殺人事件』犯人、就職後結婚。しかし…

結婚

『下関通り魔殺人事件』の加害者上部康明は、その後はいくつかの職場で経験を経て、福岡市内の設計事務所に就職しました。この事務所は所長と2人だけの職場で、人間関係に悩むことも少なく、症状も精神的にも徐々に落ち着いていったそうです。その後一級建築士の資格を取ったのを機に、1992年に退社、父親から援助等受け、自身の事務所「康明設計」を開きます。1993年10月に結婚相談所で出会った女性とめでたく結婚し、福岡市内で生活していた。保母をしていた妻は二級建築士の資格をとり上部康明をサポートしていました。ここまでは多少問題等ありましたが、仕事も順調に進み、自分が殺人事件を起こし逮捕されるなど考えてもいませんでした。

苦しみ

ですが、1997年あたりから他人を相手にすることが増え、今まで落ち着いていた対人恐怖症が再発、精神的に不安定になり営業不振になります。その当時は妻の稼ぎや実家からの仕送りで生活していました。1998年に経営がうまくいかず事務所を閉鎖。新婚旅行で行ったニュージーランドへの移住を考え始めます。その資金づくりに、1999年実家に戻り、フランチャイズの軽貨物輸送の仕事を始めました。ちょうどこのころ、妻はニュージーランドに行ってしまいます。この仕事をしながら上部康明は、1998年6月に自宅を出て先にニュージーランドに行った妻を待ち続けていました。
ちなみに、妻が上部康明を残してニュージーランドに行った原因は、上部康明が妻を残して実家に帰ったのが原因でした。

うまくいかない人生。『下関通り魔殺人事件』加害者の苦悩

台風

その後妻がニュージーランドから帰国しますが、離婚を迫られます。『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明はなんとか引き留めようとしましたが、結果は変わらずじまいでした。ですが上部康明は1人でもいいからニュージーランドに行こうと、離婚後も一生懸命働き続けました。
そんな時、上部康明を襲ったのは台風18号でした。仕事で使っていたトラックが冠水し、台風が去ったあと上部康明に残ったのは多額のローンのみでした。
仕事もうまくいかず自分の事務所を閉め、最愛の妻との離婚、更に台風でトラック故障と「なにをやってもうまくいかない」と落ち込み、同居していた父親にローンの肩代わりと移住額を借用を申し出ますが、父親はこれを断り、車を貸すから自分で払えと言います。

自暴自棄になった『下関通り魔殺人事件』の加害者

カレンダー

『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明は元々努力家で非常に真面目な人物でしたが、自分がうまくいかないのは他人のせいだと怒りと憎悪を抱き始めます。「社会的にダメージをあたえてから死んでやろう」と決意した上部康明はその後通り魔殺人事件を企てました。これが大きな動機となりのちに『下関通り魔殺人事件』と大きな殺人事件になり、歴史に残る通り魔殺人事件となるのです。
しかし、上部康明が決めた『下関通り魔殺人事件』の決行日は10月3日でした。実際にカレンダーには3日の欄に「スクランブルアウト」と書かれていました。意味は直訳で「~から飛び出す、飛び出る」です。

廃車

何故『下関通り魔殺人事件』が早まったかというと、原因は両親でした。上部康明はその日両親に「冠水した車の廃車手続きは自分でやれ」と言われ、うまくいかず不幸続きの今、廃車の手続きなんてやってられるかと逆上し、その結果『下関通り魔殺人事件』を起こしてしまったのです。
急きょ予定を変更。『下関通り魔殺人事件』をその日に起こそうと考えた上部康明は午後1時頃レンタカーを借り、包丁を購入。睡眠薬を飲み犯行に及び逮捕されました。

ちなみに、『下関通り魔殺人事件』の約3週間前に「池袋通り魔殺人事件」が起きていました。その事件を知っていた上部康明は裁判の中で「池袋通り魔殺人事件を意識して犯行に及んだ」、「池袋のようにナイフだけでは大量に人を殺せないので車を使った」と車を使った動機を語っています。

『下関通り魔殺人事件』被害者への賠償金の問題

おかね

多くの被害者を出した『下関通り魔殺人事件』ですが、殺された方法などで被害者に与えられる賠償金が大きく差が開き、問題になりました。
車に跳ねられて亡くなった被害者には、自動車保険が適用されておよそ3000万円が支払われたが、包丁で刺されたり切られた被害者は犯罪被害者給付金扱いとなり、上限1079万円の支払いが限度で、しかもその支給も条件がとても厳しく、300万円ほどしか支給されなかった被害者の遺族がいました。
同じ加害者に被害を受けた『下関通り魔殺人事件』の被害者の遺族たち対する保障に大きな差が開いてしまったのです。

『下関通り魔殺人事件』の逮捕後、裁判

裁判

『下関通り魔殺人事件』が起き、犯人が逮捕された数年後、裁判が行われました。
2002年9月20日、山口地裁で行われた裁判で裁判長は「史上まれにみる凶悪な犯罪。動機に斟酌すべき事情もない」と上部康明に告げ、死刑判決を下しました。
その後の2005年6月28日、広島高裁で行われた裁判で裁判長は一審の死刑判決を支持し、上部康明の控訴を棄却します。
最後に行われた2008年7月11日、最高裁で今井功裁判長は被告側の上告を棄却し、上部康明の死刑確定します。
時は経ち2012年3月29日、死刑執行され『下関通り魔殺人事件』の犯人上部康明はこの世を去りました。

神

何故上部康明が裁判で死刑判決を控訴や上告し、罪を免れようとしたのでしょうか?
実は逮捕後、動機は「神の指示だ」など意味不明な発言をし、奇声を発しながら廷内を走り回るなどの奇行に走っていたのです。この行動が死刑を免れるための演技なのか本心からの発言なのか判断するため、精神鑑定が行われていました。
検察側が逮捕後に死刑を免れるために行った行動を根拠とし鑑定した結果、過去に人間関係等で精神が不安定になりうつ状態に陥ったことはあるが、刑事責任能力への影響はないと判断しました。
一方弁護側の鑑定結果は精神状態は未だ不安定で、統合失調症に近い妄想性障害、心神喪失または心神耗弱と判断しています。

『下関通り魔殺人事件』からわかること

儚い

いかがでしたでしょうか?『下関通り魔殺人事件』は恐ろしい事件でしたが、犯行に至るまでの経緯をたどっていくと、日常でよくありそうな、なおかつ自分にも仕事や家族関係での不幸が続く可能性があるということがわかります。対人恐怖症も軽度のものであれば日本人であれば誰しもなりうる可能性のある病気です。『下関通り魔殺人事件』とは大量殺人事件という点で見れば非常に遠く感じますが、実は非常に身近な事件なのです。
しかしどんな動機であれ人を殺すことは許されることではなく、逮捕され人生を棒に振っていいわけがありません。辛く悲しい時期もあるかと思いますが、自暴自棄にならず、地道に頑張っていれば必ず成果は出ると信じ、頑張って生きていくことが成功への近道なのですね。

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この記事のライター
なるお
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