ボストン茶会事件とは?紅茶が生んだアメリカとイギリスの争いと全貌
ボストン茶会事件とはまだアメリカがイギリスの植民地支配を受けていた頃に船に積まれた大量の紅茶を海に投げ捨てた事件です。ボストン茶会事件はアメリカの独立運動の先駆けと言われていますが何故行われたのでしょうか?ボストン茶会事件の全容に迫ってみました。
目次
ボストン茶会事件とは?
ボストン茶会事件を簡単に説明するとアメリカ人がボストン港で船に積まれた大量のイギリス産の紅茶を海に投げ捨てたという事件です。
何故アメリカ人はこの様な行為をしたのでしょうか?ボストン茶会事件はアメリカがイギリスの植民地支配を受けていた頃の時代背景が大きく関係しているので歴史を知ることで因果関係が見えてきます。
今回はそんなボストン茶会事件についてご紹介します。ボストン茶会事件が起きたきっかけとは何か?ボストン茶会事件が起きた後はどうなったか?などについて迫ってみました。これを知れば世界史の勉強にも役立つことでしょう。
ボストン茶会事件の時代背景
イギリスの植民地支配が続いていたアメリカ
ボストン茶会事件が発生したのは1773年12月16日でした。当時はまだアメリカがイギリスの植民地支配を受けていた頃の時代なのでアメリカの政治にもイギリスが大きく関わっていました。そのためボストン茶会事件が発生したのはアメリカのボストン港でしたが、事件のきっかけはイギリスの情勢が深く関わっています。
資金難だったイギリス
当時のイギリスはフランスとの植民地争いを始め数多くの戦争を行っていました。そのためイギリスは資金難に見舞われて約1億3千ポンドもの借金を抱えてしまいました。イギリスが自国の借金を返済する為に取った行動は増税でした。そしてその増税の対象となったのは植民地支配を受けていたアメリカでした。イギリスはアメリカに対して新聞・書類などの紙類や茶・塗料・ガラスなどの日用品などありとあらゆる品物を課税対象としました。
理不尽な税制
政策の実行に関しても相手が植民地支配をしている国なだけに、アメリカの意見を聞かずにイギリスが一方的に決定するというやり方でした。それに対してアメリカは「自分達の意見も聞かずに取り決めた税制など守る必要無し」というスタイルと取るようになりました。
ボストン茶会事件:紅茶の存在
18世紀当時はイギリスでもアメリカでも紅茶が大人気でした。(現在もそうですが)紅茶の人気は老若男女問わず広まっていたので、一説によると年間でカップ300杯もの紅茶を飲んでいたと言われています。
そのためイギリスによって紅茶への課税が決定した際もアメリカは逆らうことが出来ないながらも不満が拭いきれませんでした。
ボストン虐殺事件の発生
アメリカの抵抗
理不尽な税制を強いられたアメリカはイギリス産の紅茶の輸入を止めて自国で紅茶を栽培し始めるなどの手段を取るようになりました。また他の税制に対しても自分達は払う必要無いというスタイルを貫き通し抵抗し続けました。そのおかげで理不尽な税制は廃止されましたがイギリス軍による厳戒態勢が敷かれるようになってしまいました。
植民地下の国で起きた事件
しかし肝心の紅茶への増税はそのまま施行されることになりました。そんな中1770年に「ボストン虐殺事件」が発生します。ボストン虐殺事件とはイギリス軍とアメリカ人との間で小競り合いが発生し、イギリス軍が発砲し外国からの移民を含む数名を殺してしまった事件です。これによりボストンではイギリスに対する不信感を抱くようになりました。
アメリカのストレスは溜まる一方
それにもかかわらず紅茶に対する税制は変わりませんでした。またイギリスは茶法という法律を作ってイギリスが管理する東インドの紅茶会社の紅茶を買うように仕向けて自国の茶税を支払うことを余儀無くされる様な制度を制定しました。この茶法の制定に関してもイギリスはアメリカの意見を一切聞かずに勝手に施行してしまいます。そのためアメリカ人(特にボストン市民)は上記のボストン虐殺事件も相まってイギリスに対して強い不信感を抱くようになりました。
ボストン茶会事件勃発
ボストン市民の不信感が積もるにもかかわらず一方的に厳しい税制が強いられる中で遂に事件が発生します。
港に停泊し続けた船
茶法が施行されてから東インド会社の紅茶を乗せた船はボストン港に到着しても、ボストン市民によって陸揚げすることを拒否されていました。しかし船は積荷である紅茶を乗せたまま帰るわけにもいかないのでボストン港へ停泊を続けます。
1773年12月16日遂に発生
そして1773年12月16日に船長が船から荷物を降ろそうとした瞬間に事件が発生しました。約50人の市民が埠頭に停めてあった3隻の船を襲撃し約340箱の紅茶を海へ投げ捨てました。その50人の中にはインディアンの衣装やペイントを施した男性もいました。海へ投げ捨てられた約340箱の紅茶は金額こそ現在の価値に換算するのは難しいですがかなりの経済的ダメージになったと言われています。
ボストン茶会事件のその後
ボストン茶会事件が発生したことによりイギリス政府は激怒しました。そして1774年にボストン茶会事件によって海に流れた紅茶を全て弁償するまでボストン港を封鎖し続けるという法律を制定しました。しかしこれは結局実施されることはありませんでした。
その後の独立運動に続く
アメリカ人の代表者たちはボストン茶会事件の後、会議を行いイギリスの圧力に対してボイコットを行うという結論を出しました。それがきっかけとなりアメリカの独立運動やイギリスへの反乱という世界史に残る大きな出来事へと続いていきます。
ボストン茶会事件の原因とコーヒーの発展
ボストン茶会事件が発生した原因は自国の借金を国内だけで処理できず、アメリカに強制的に協力させようとしたイギリスにあります。理不尽な税制そのものにも問題がありますがアメリカが不満を抱いていた点は「自国の代表者を介さずに勝手に増税を決めた事」なので、ボストン茶会事件は当時のイギリスの横柄な態度がもたらした産物といっても過言ではありません。
またボストン茶会事件が発生した後はボストンを中心にアメリカ全体が紅茶を敬遠するようになりました。その代わりにコーヒーが広く親しまれるようになります。現在アメリカ国内でコーヒーが親しまれているのはこれがきっかけであると言われています。
ボストン茶会事件は誤訳?
ボストン茶会事件は英語の「The Boston Tea Party」を和訳した物ですが、実はこの訳し方は誤訳であると言われています。何故なら「The Boston Tea Party」の「Party」には2つ異なる意味があるからです。
Party=政党
「Party」という単語は私達がよく知っている誕生日パーティーやホームパーティーなどのお祝いイベントを意味する物と、政党や組織などのチームを意味する物の2通りがあります。ボストン茶会事件とはお祝いイベントではなくイギリスの政治に対して反感を持ったアメリカ人の組織が行った事件なのでこの「Party」はチームを意味します。
日本人は「Party」と聞くとどうしてもお祝いイベントを想像してしまうので「The Boston Tea Party」もボストン茶会事件と表現していますが、一部の人達から「ボストン茶党事件」が正しいという意見も出ています。
ボストン茶会事件の観光旅行
世界的に有名な出来事として現在も語り継がれているボストン茶会事件ですが、事件が発生したボストンは現在観光地となっていてボストン茶会事件を深く知ることの出来る唯一の観光地となっています。
観光におすすめなボストン茶会事件博物館
ボストン図書館、そしてボストン茶会事件博物館に行ってきましたー!!
— @勉強垢☆華 (@sweet_love0609) July 15, 2017
ここは今午後3時です!! pic.twitter.com/xYF479niGh
ボストン茶会事件が起きたボストン港には「ボストン茶会事件博物館」という観光スポットがあります。ここでは当時の船を再現した船やボストン茶会事件に縁のある資料などがたくさんあり、ボストン茶会事件を詳しく知ることの出来る観光名所となっています。館内には紅茶を飲むことが出来るティールームやお土産の茶葉が買えるお店などもあります。
観光地でボストン茶会事件を体験
またボストン茶会事件を実体験できるイベントも行っています。港には当時の貿易船をイメージした船があって、その船に乗った参加者が茶葉の入った箱を海へ投げ捨てるというユニークなイベントが行われています。
観光におすすめ!ボストン茶会事件博物館の詳細
ボストン茶会事件について:まとめ
いかがでしたでしょうか。ボストン茶会事件はイギリスの傲慢な体制によってアメリカの独立運動のきっかけとなったとても重要な歴史上の出来事です。現在はアメリカでも普通にイギリス産の紅茶が広まっていますが、その背景には死傷者が出る位の重要な出来事があったということを覚えておくべきでしょう。