九大生体解剖事件の概要・真実・目撃者語る

九大生体解剖事件とは、太平洋戦争終戦間際の1945年春に九州帝国大学(現九州大学)医学部で行われたもので、その内容はアメリカ軍捕虜8名を生きたまま解剖し、死亡させたという衝撃的な事件です。戦後70年を過ぎた今、九大生体解剖事件の真実に迫ってみたいと思います。

九大生体解剖事件の概要・真実・目撃者語るのイメージ

目次

  1. 1戦後70年九大生体解剖事件の概要と真実
  2. 2九大生体解剖事件の目撃者は何を語るのか
  3. 3九大生体解剖事件に関する書籍と映画
  4. 4「九大生体解剖事件」に見る戦争の真実

戦後70年九大生体解剖事件の概要と真実

終戦直前の昭和20年(1945年)春、九州帝国大学(現九州大学)医学部に「捕虜を適当に処分せよ」という指令が軍から下されました。この指令から「九大生体解剖事件」という悲しい事件が起きました。

このころ、戦争は激化しており、連日のようにアメリカ軍のB29による空襲を受けていました。昭和20年5月5日、この日も大分県竹田市上空にB29が飛来し、日本軍の戦闘機がこのB29に体当たりで撃墜しました。B29の搭乗員8人はパラシュートで着地しましたが、日本軍に捕らえられ捕虜となったのです。

このころの日本はアメリカ軍の攻撃により甚大な被害を受けていて、食料も足りないという状況の中、大本営から「捕虜を適当に処分せよ」という指令が西部軍に下されました。処分に困った西部軍は、九大医学部出身の軍医見習い小森拓の立案により、生体解剖に同意したのです。

九大生体解剖事件の内容

「適当に処分せよ」と連行された米軍捕虜8名は各2名ずつ4回にわたり生体解剖が行われました。1回目は全肺摘出と海水を代用血液として輸血するという実験が行われました。2回目は心臓摘出と肝左葉切除、3回目はてんかんに対する脳手術が行われました。4回目は代用血液と縦隔手術、そして肝臓摘出が行われたのです。

「九大生体解剖事件」は麻酔を使って行われたという事ではありますが、いずれも生きたまま手術と称して生体解剖実験が行われたのです。米軍捕虜8名は手術中かその直後に死亡したという事です。

九大生体解剖事件の中心人物「石山福二郎」

九大生体解剖事件は、九州大学医学部第一外科の石山福二郎教授が中心となって行われたと言われています。しかし石山福二郎教授は逮捕された4日後に土手町刑務所内にて自殺してしまった事、また事件の発案者とされている九州大学医学部出身の軍医、小森拓見習い士官も昭和20年6月の空襲で死亡してしまった事で、真相は定かではありません。

石山福二郎教授は遺書を残していました。その内容は「いっさいは軍の命令、責任は余にあり。鳥巣、森、森本、仙波、筒井、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし、12時、平光君すまぬ」というものでした。

戦時中の医学部の任務は、戦争に役立つ研究を行う事とされていました。当時の日本は空襲による負傷者の治療に必要な輸血が不足している事から、代用血液の研究が重要とされていました。石山福二郎教授の専門が代用血液という事で、アメリカ軍捕虜を8名も犠牲にする「九大生体解剖事件」という痛ましい人体実験が行われたのでしょう。

九大生体解剖事件に関わった人達の判決

「九大生体解剖事」の調査はGHQによって行われ、捕虜の対処に困った佐藤直吉大佐が小森軍医に話を持ち掛け、そこから石山教授に話を持ち掛けた事によって「九大生体解剖実験」が実行された事がわかりました。最終的にこの事件の逮捕者は、西武軍から11人、九州大学から14人に及びました。

このなかで、小森軍医は空襲で死亡しています。また石山教授は留置所の独房で遺書を残して自殺しています。そして事件の発端となった佐藤直吉大佐、横山勇中尉、鳥巣太郎助教授、平尾健一助教授、森吉良雄講師、計5名が絞首刑という判決を言い渡され、他18名の医師も有罪になりました。

しかしその後、朝鮮戦争が始まった事でアメリカが対日感情を考慮し、恩赦という形で減刑されてほとんどの人が釈放されたという事です。

九大生体解剖事件の目撃者は何を語るのか

戦後70年が過ぎ、「九大生体解剖事件」を目撃した人はわずか一人になってしまいました。

当時九大医学生であった東野利夫さんは、「九大生体解剖事件」に医学生として現場に居合わせたと言います。解剖が始まる前に、実験に立ち会った将校からこの手術の正当性が伝えられました。「この捕虜は名古屋を無差別に爆撃した」と説明したそうです。

解剖は東野さんの目の前で行われ、右肺摘出の後の輸血の際には海水で作られた代用血液の瓶を持たされたという事です。この日2人の米軍捕虜が生きたまま解剖され、間もなく死亡してしまいました。実験は4日間に渡り行われ、8人の若いアメリカ兵が命を落としました。

九大生体解剖事件の目撃者、終戦後の苦悩

終戦後の昭和23年11月「九大生体解剖事件」に関わった、九州大学の医師と看護婦14名、軍人16名が法廷で裁かれました。東野さんは医学生だったという事で裁かれる事はありませんでしたが、裁判では証言台に立たされました。

大学を卒業した東野さんは、「九大生体解剖事件」の体験がよみがえり、医師になるべきかならざるべきか苦しむ日々が続いたそうです。医学生で直接手を下した訳ではないものの、生きた体から臓器を取り出す光景が忘れられなかったと言います。

苦しんだ末に出した答えは、命の誕生に携わる産婦人科医になるという道でした。35歳で産婦人科医院を開業したのですが、7年後「九大生体解剖事件」で受けた心の傷がよみがえり2か月にわたり、診療内科に入院を余儀なくされたのでした。今でも睡眠薬を飲む事があるそうです。

東野さんは退院後も心の傷を抱えたまま、今から5年前まで産婦人科という命の現場で活躍して来ました。「九大生体解剖事件」に関わった唯一の生き証人として、この事件を忘れてはならないと、当時の資料を集めたり関係者の証言を集めてきました。そして自身の産婦人科医院の片隅に資料の展示をしていたそうです。

また、1979年「汚名:「九大生体解剖事件」の真相」という本を出してこの事件を後世に伝えようとしているのです。

九大生体解剖事件に関する書籍と映画

『汚名:「九大生体解剖事件」の真相』

「九大生体解剖事件」に関する書籍はフィクション、ノンフィクションを含めて多数あります。その中の一冊が『汚名:「九大生体解剖事件」の真相』(文藝春秋文庫)があります。この本は、現在この事件のただ一人の生き証人で、当時九州大学の医学生であった東野利夫さん(90)が事件の真相に迫った一冊です。

「九大生体解剖事件」は九州大学医学部解剖学講座の解剖実習室で行われました。当時この解剖学講座の平光吾一教授が事件の首謀者ではないかと言われる事もあったと言います。しかし平光吾一教授は実習室を貸しただけで首謀者は他にいるということを明らかにして、著者の恩師である平光教授の汚名を晴らすため、真実を後世に伝えるために本書を発刊したということです。

「九州大学生体解剖事件・70年目の真実」

その他に、「九大生体解剖事件」の重要人物として逮捕され死刑を言い渡され後、妻の最新請求によって減刑された鳥巣太郎助教授の姪である、熊野以素さんが書き下ろした一冊に「九州大学生体解剖事件・70年目の真実」があります。

著者の叔父が関わったこの事件について、戦犯裁判記録や再審査資料、親族の証言など今まで語られることが無かった真実に迫った一冊になっています。

「海と毒薬」


故、遠藤周作さんの小説に「海と毒薬」という一冊があります。「海と毒薬」は「九大生体解剖事件」を基にした小説です。そして「海と毒薬」は奥田英二さんと渡辺謙さん出演で映画化もされています。この本で「九大生体解剖事件」を知ることになった人も沢山いるようで、読んだ人達はこの非現実的な事件を通して戦争のむごさを改めて感じているようです。

「九大生体解剖事件」に見る戦争の真実

「九大生体解剖事件」はなぜ起きたのか

1945年5月太平洋戦争が激化し、日本は毎日のようにB29による爆撃を受けていました。それでも国民は戦争の勝利を信じて耐えていたのでしょう。そんな中で起きた「九大生体解剖事件」。

命を守る医師を育てる教育の現場で起きた痛ましい事件ですが、なぜ「九大生体解剖事件」は起きてしまったのでしょうか。それは、戦争という特殊な環境下に置いて大学教授という立場より軍に仕える立場をとらざる終えなかった、という事です。戦争下において軍の命令は絶対です。そして大学内では、教授の言うことは誰も逆らう事は出来なかったのです。

軍から捕虜の処分を命じられ、小森軍医見習いの発案で石山教授が同意して始められたこの事件、沢山の医師や看護師、そして東野さんのような医学生が見守る中で、誰も「やめたほうがいい」と言わなかった事実がここにあります。いえ、ただ一人だけ止めた人がいました。それはのちに首謀者として死刑判決言い渡された鳥巣太郎助教授です。

しかしその意見が聞き入れられる事はありませんでした。

首謀者の石山教授が逮捕後に自殺、発案者の小森軍医見習いも敵の爆撃で死亡してしまい、その次の責任ある立場という事で、皮肉にも鳥巣助教授は「九大生体解剖事件」の首謀者という事になってしまったのでした。鳥巣助教授の妻が再審請求をしたことで死刑は減刑され、懲役10年になり昭和29年まで巣鴨刑務所に入っていました。

「九大生体解剖事件」を後世に伝える事

旧日本軍戦闘機の残骸 - ハガニア、グアム太平洋戦争博物館の写真 - トリップアドバイザー

「九大生体解剖事件」に関わった石山教授をはじめ、他の医師や医学生、看護師など多くの人達が、終戦を迎えた後事件のトラウマに悩まされたと言います。そして「九大生体解剖事件」については皆が口にする事を避けたのです。

「九大生体解剖事件」は生きたまま解剖実験されたアメリカ兵捕虜も、この事件に関わったすべての人達皆が戦争被害者という事になります。戦争という状況下で普通の精神状態ではなかった医師達が、生きた体で実験が出来るという誘惑に負けたのです。しかしどんな状況であっても、あってはならない事件でした。

東野利夫さんは、今も心に区切りは付かないそうです。そして「償い」として資料を残し展示して、訪れて来る人には語って伝えていきたいと言います。東野さんの言葉です「大事なのは残された人間の態度。過ちをタブーにする事。それが本当の過ちです」

また九州大学医学部でも「九大生体解剖事件」を継承する取り組みをしています。九州大学医学歴史館に「九大生体解剖事件」を伝えるパネルと「九州大学五十年史」の関連ページが展示されています。戦後70年医学部教授会において事件の被害者であるアメリカ兵へ「哀悼の意」を表明しました。

今年の九州大学医学部の卒業式では学部長が祝辞で「負の部分も含めて過去を冷静に見つめなおす事が、私たちを正しい道へと導いてくれるものと信じています」と述べています。

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