飢えのあまり人肉も…江戸時代「天明の飢饉」の原因や死者数とは?

江戸時代は幾度も大きな飢饉に襲われ、多くの民衆が餓死や疫病で命を落としています。中でも教科書の年表で江戸時代の重要項目に記される「天明の大飢饉」は人肉を食う程凄惨な飢饉でした。そんな天明の大飢饉について原因や経過など分かりやすくまとめてみます。

飢えのあまり人肉も…江戸時代「天明の飢饉」の原因や死者数とは?のイメージ

目次

  1. 1一番被害が大きかったのは?江戸時代に起きた三大飢饉
  2. 2そもそも天明っていつ?飢饉って何?
  3. 3大飢饉の原因はやはり天災!4か月の間に連発した天変地異とは?
  4. 4海外の噴火も影響!?遠く離れた噴火が大飢饉の原因になった説
  5. 5天明の大飢饉は人災だった?キーマンは「田沼意次」
  6. 6飢えのあまり人肉を食べた!?杉田玄白が記した天明の大飢饉
  7. 7飢えだけではない!生き残った人に襲いかかる大問題とは?
  8. 8地獄絵図…写真がなかった江戸時代に描かれた天明の大飢饉の絵
  9. 9人口はどれくらい減った?天明の大飢饉の死者数
  10. 10江戸時代屈指の名君!大飢饉から民衆を救った二人の大名
  11. 11天明の大飢饉に関する出来事を年表形式で知る
  12. 12まとめ

一番被害が大きかったのは?江戸時代に起きた三大飢饉

戦乱の時代が過ぎ、日本史上でも泰平の世と言われる江戸時代ですが、天変地異などが原因で飢饉に陥ったことも数多くありました。

その中でも規模の大きかった4つの飢饉を「江戸四大飢饉」と呼び、さらにその中の3つを「三大飢饉」と呼んでいます。

「江戸四大飢饉」「三大飢饉」とは?

出典: http://wishpafupafu.blog110.fc2.com

江戸時代に起きた4つの大飢饉。その名称は次の通りです。

〇寛永の大飢饉(1642~1643)
◎享保の大飢饉(1732)
◎天明の大飢饉(1782~1787)
◎天保の大飢饉(1833~1839)

この中で◎をつけた3つが「三大飢饉」と呼ばれています。

江戸時代で最も規模が大きかったのは「天明の大飢饉」

上の「三大飢饉」のうち、あるいは近世最大規模の被害があったのは、今回のテーマである「天明の大飢饉」です。

それでは、その原因と問題、人口や死者数などを探ってみることにしましょう。

そもそも天明っていつ?飢饉って何?


この記事では江戸時代中期の終盤に起きた「天明の大飢饉」について原因や経緯を解説しますが、その前に「天明っていつ?」「飢饉ってどういう状態のこと?」などの背景や言葉の意味を知っておきましょう。

誰が将軍?天明の期間について


最初は事件名についている「天明」の時代背景です。

265年続いた江戸時代のうち、天明の年号が使われたのは8年間。西暦1781~1788年のことでした。

出典: http://blog.goo.ne.jp

第10代将軍・徳川家治(1737~1786)
年号「天明」の期間の大部分で将軍だったのが第10代の家治(いえはる)でした。

・将軍在任期間は1760年から亡くなる1786年まで。
・田沼意次が老中として政治改革を行ったことで知られる

出典: http://www.lib.pref.fukuoka.jp

第11代将軍・徳川家斉(1773~1841)
天明年間最後の2年は第11代の家斉(いえなり)が将軍を務めています。

・在任期間は1787年から1837年まで
・松平定信の「寛政の改革」が行われたことで知られる


初代将軍・家康や最後の将軍・慶喜、時代劇で人気の八代将軍・吉宗と比べると家治・家斉は影が薄く、あまり注目されていない天明の時代ですが、田沼意次や松平定信の改革は歴史の勉強でも重要な位置づけをされているのはご存知の通りです。

天明の大飢饉を含めて江戸時代の中でも重要なポイントになっていた時期だったんですね。

イメージ通り?「飢饉」という言葉の意味


次に知っていただきたい言葉が「飢饉」です。


農業生産物が実らず食物が欠乏し、多くの犠牲者を出す社会的災害。


似たような言葉に「飢餓」がありますが、こちらは…


食べ物がなくて飢えること。飢え。「―感」

同じような意味合いではありますが、「飢饉」が社会的な飢えの事件・問題であるのに対し、「飢餓」は身体の状態・個人の飢えで使う言葉ということになるでしょう。

つまり「天明の大飢饉」というのは『天明年間に起きた大規模な食物不足問題で、飢えによって多くの死者が出た災害』と言い換えることができます。

大飢饉の原因はやはり天災!4か月の間に連発した天変地異とは?


江戸時代としても近世以降の日本においても最大の被害が出たとされる天明の大飢饉。その原因はやはり人間には抗えない「自然の力」でした。

1つ目の災害は岩木山の噴火

出典: http://www.data.jma.go.jp

1783(天明3)年4月、岩木山
左の画像は東北地方の活火山分布図です。この中にある青森県の岩木山が西暦1783年4月に噴火します。

火山が噴火すると広範囲にわたって火山灰が降り積もるのは想像できますが、その他にも天高く舞い上がった物質が日射量を低下させる作用もあります。

因みに岩木山は今でも気象庁が常時監視する活火山です。

出典: http://www.bousai.go.jp

青森県南西部にそびえ立つ岩木山。山頂が雪化粧をすると富士山のような美しさを魅せてくれています。

2つ目の災害は浅間山の噴火

出典: http://www.data.jma.go.jp

1783(天明3)年8月、浅間山
岩木山の噴火からわずか4か月後、今度は画像中央よりやや上にある浅間山(長野県・群馬県)が大爆発を起こします。

当時の浅間山は5月から噴火活動が続いており、江戸にも火山灰が降ったという記録があります。その中でも8月に起きた大爆発が川をふさぎ、洪水となって多くの村が壊滅しました。

もちろん日射量にも影響が出たため、岩木山の噴火とWパンチで冷害に拍車がかかったことになります。


東京・葛飾区に設置されている「浅間山噴火川流溺死者供養碑」。利根川や江戸川の下流までも大洪水で被害を受けたことが記されています。
東北北部の岩木山と関東甲信越の浅間山で起きた2件の噴火は日射量を減らし、多くの地域に冷害となって襲い掛かりました。

特に間に挟まれた東北地方は深刻で、10年ほど前から起きていた冷害に追い打ちをかけられた格好となっています。

海外の噴火も影響!?遠く離れた噴火が大飢饉の原因になった説


天明の大飢饉は岩木山・浅間山の噴火だけでなく、遠く離れた国にある火山の噴火も原因として挙げられています。

日本の裏側・アイスランド

出典: http://naoko-graz.blog.jp

まず、画像でアイスランドの位置を確認しましょう。

日本からはるか8600キロ離れた島国で、面積は北海道と四国を合わせたくらいです。

岩木山・浅間山と同じ年に2つの噴火

先に述べた岩木山・浅間山の噴火とほぼ同時期の1783年6月に、画像中央やや下寄りのラキ火山とその右上のグリムスヴォトンが相次いで噴火しました。

この噴火はヨーロッパに厳冬・洪水・干ばつなどの異常気象をもたらし、フランス革命の原因に挙げられています。

比較的近くのフランスだけでなく遠く離れた日本にまで影響を及ぼした噴火は、小さな島国アイスランド人口の1/5に当たる死者を出す地獄絵図にしたことは容易に想像できますね。


ラキ火山こと「ラーカギーガル」。日本の活火山とは周辺の景色が異なり、木々がほとんど生育していないのが分かります。

天明の大飢饉は人災だった?キーマンは「田沼意次」


火山の噴火による日射量の減少が原因とされる天明の大飢饉ですが、自然現象だけでなく政治のミスも大きな原因で「人災だった」という側面も持っています。

江戸時代の重要キーワード「田沼時代の政治改革」


歴史の教科書で江戸時代の年表を見ると、「〇〇の改革」というワードが3つ登場します。

「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」と呼ばれる三大改革がそれですが、享保と寛政の間に「田沼時代」と書かれた年表もあります。

「年号+改革」とは呼ばれなかった田沼意次の政治改革。その政策がなぜ天明の大飢饉を生む原因となったのかを簡単に見てみましょう。

田沼意次の政策は農村の荒廃を招いた
左の画像は江戸時代中期の重要人物、田沼意次(たぬま・おきつぐ)。

10代将軍徳川家治の老中として政治改革に着手。経済発展のため「重商主義」と呼ばれる商業中心の政策を行いました。
 

農業人口の減少問題が天明の大飢饉を招いた原因だった!?

世の中では貨幣の重要度が増し、反対に米を中心とした農作物の価値が下がる事態に。

その結果、農業を放棄した農民が続出し農村部の荒廃が深刻化。そこに異常気象と火山の噴火によって東北をはじめとする大凶作が起こります。
「あちらを立てればこちらが立たず」の言葉通り、商業(貨幣経済)を重視したが農業(食料政策)を軽視し過ぎたために食料の供給量自体は減少傾向にあったと考えられています。

歴史に「if」はあり得ませんが、もし農村部への対策も同時進行で行っていれば人肉を食らうほどの飢えは抑えられたかもしれませんし、死者も少なく済んだのかもしれません。

飢えのあまり人肉を食べた!?杉田玄白が記した天明の大飢饉

天災と人災、両方の側面で起きた天明の大飢饉ですが、その惨状はどのようなものだったのでしょうか。

写真がまだなかった江戸中期ですが、絵は残されています。

出典: http://blog.livedoor.jp


杉田玄白(1733~1817)
江戸時代中期の医者(蘭学医)で「解体新書」「蘭学事始」の著者として知られる杉田玄白は、「後見草」という著の中で天明の大飢饉の惨状に触れています。

衝撃!江戸時代屈指の医者が書いた大飢饉の実態


それでは、「後見草」に書かれた衝撃の実態をご紹介しましょう。少々グロテスクな表現がありますので、何かを食べながら読まれるのは避けた方がよろしいかと…。

出典: http://dbrec.nijl.ac.jp

『次第に食べ物は尽きて、果ては草木の根や葉まで食糧となるものは食べないということはなかった。』

『貧しい者は生産する術がなく、家族を見捨てて彷徨い物乞いとなった。しかし、行く先々も飢饉だったので日に千人二千人の流民たちは餓死していた。』

『農村から出ていくことができない者たちは、食べられる物を全て食べつくし、死者の人肉を切り取って食べていた』

『子供の首を切り、頭の皮を剥いで火に炙り、脳みそと草木の根葉と一緒に炊いて食べた者もいた』

『ある人の話では、陸奥のなんとかという橋の下で人の死骸を切り裂き、人肉をカゴに入れている人がいた。何に使うのか訊いたところ、草木の葉と混ぜて犬の肉と言って売るのだと言う。』

死者だけでなく子供を殺してまで人肉を食べていた極限状態

飽食の時代に生きる我々にとって、人の肉を食べるなんてことは想像もつかないでしょう。

しかし、「後見草」に書かれたように死者の肉だけでなく生きていた子供を殺してまで人肉を食べるしかなかった状況は、「極限状態に追い込まれた動物の本能」が勝っていたのかもしれません。

飢えだけではない!生き残った人に襲いかかる大問題とは?


大飢饉に共通する問題は「飢え」だけではありませんでした。なんとか生き延びた人にとって更なる問題となったのが、「疫病」です。

栄養状態も衛生状態も最悪の環境で簡単に疫病が流行した


今でこそ死者は火葬するのが常識となっていますが、江戸時代中期はその習慣はありませんでした。まして大飢饉で処理しきれない大量の屍が至るところに転がっていたとされています。

その屍はやがて腐敗し、衛生状態が劣悪の環境を生み出します。しかも、生き残った人々は人肉を食べてまで飢えを凌いでいた最悪の栄養状態。疫病が蔓延しない方が不思議でしょう。

出典: https://twitter.com


その屍はやがて腐敗し、衛生状態が劣悪の環境を生み出します。しかも、生き残った人々は人肉を食べてまで飢えを凌いでいた最悪の栄養状態。疫病が蔓延しない方が不思議でしょう。

地獄絵図…写真がなかった江戸時代に描かれた天明の大飢饉の絵

出典: http://shibayan1954.blog101.fc2.com

左の画像は天明の飢饉を描いた数少ない絵です。

真ん中に包丁が投げ捨てられ、その左側で横になった男が人の腕を食らい、右下では力尽きた女性の左脚に子どもがかじりついている姿も描かれています。

絵とはいえ、凄惨な状況をリアルに描いた阿鼻叫喚な世界を垣間見ることができます。

人口はどれくらい減った?天明の大飢饉の死者数


ここまでで天明の大飢饉が起きた原因・問題・状況について、地図や絵を使ってお伝えしました。では、実際に死者はどの程度いたのでしょう?

江戸時代最大の飢饉が奪った人命は半端な数ではない!


下の画像は江戸時代の人口をグラフ化したものです。天明の大飢饉にあたる部分が日本全人口がどのように変化を与えたか見てみましょう。

【天明の大飢饉直前】
1774(安永3)年:2599万人
1780(安永9)年:2601万人(6年間で2万人増加)
【大飢饉期間】
1786(天明6)年:2508万人(6年間で93万人減少)
【大飢饉終焉直後】
1792(寛政4)年:2489万人(6年間で19万人減少)
1798(寛政10)年:2547万人(6年間で58万人増加)
上の数字で大飢饉の影響がいかに大きいかが分かります。直前6年で微増だった人口が、同じ6年という期間で一気に93万人、さらに次の6年も合わせると112万人も減っています。

そして次の6年では一気に60万近い人口増加が起きていることからも、飢饉の凄まじさを感じ取れますね。

なお、この人口減少は飢饉の原因となった火山の噴火による災害や後遺症と言うべき疫病も原因となっていることを付け加えておきます。

江戸時代屈指の名君!大飢饉から民衆を救った二人の大名


先に天明の大飢饉は人災でもあったと田沼意次の政治を挙げましたが、今度は飢饉という災害から領民を守った大名を2人ご紹介します。

飢饉の被害を最小限に食い止めた米沢藩主


上杉鷹山(1751~1822)
左の画像は米沢藩(今の山形県米沢市周辺)を治めていた上杉鷹山の銅像です。

鷹山は大赤字の藩を政治改革によって立て直し、現代でもビジネス書で取り上げられる人物として広く知られています。また、最近の歴史教科書には重要人物の生没年を記した年表にも名を連ねるほどの名君でもあります。

天明の大飢饉で鷹山の政策が活きたのは田沼意次とは反対に農地開発に力を入れたことと、藩で備蓄米をストックし、飢饉の際に民衆へ提供したことと言われています。

「なせば成るなさねば成らぬ何事も」までは多くの人に知られていますが、その先の「成らぬは人のなさぬなりけり」まで理解していると重みもまた違ってきます。

この言葉も上杉鷹山の藩政改革が評価されているからこそ成っているのでしょう。

東北地方で餓死者ゼロ!白河藩主は他の藩主と何が違った?

出典: https://www.worldwide-transition.info


松平定信(1759~1829)
左の絵は社会・歴史の教科書でもお馴染みの松平定信です。

「寛政の改革」を主導した老中として有名ですが、それ以前は白河藩(今の福島県白河市周辺)の藩主でした。

定信が老中として国政を担うようになったのは、天明の大飢饉で領内の一人も餓死者を出さなかったことを評価されてのことだといわれています。
松平定信が他の東北藩主と違ったのは、鷹山と同じく藩の備蓄米をしっかり管理していたこと。

多くの藩主は藩や領民の備蓄米を江戸や大坂へ廻して財を確保したために大飢饉が来ても対処できる食糧がありませんでした。

それに対して定信は農業を重視し、いざという時に備えた慎重政策を採っていたために民衆の生命を救うことができたわけです。

白河藩や米沢藩にできたということは、他の東北各地でもできないことはなかったということでしょう。まさに「成さぬは人のなさぬなりけり」ですね。

天明の大飢饉に関する出来事を年表形式で知る


最後に天明の大飢饉に関しての出来事を年表形式で整理しておきましょう。これまでご紹介してきた内容が、どのような順番で起こったのかをご覧ください。

年表1:~1782年

【1767年】 田沼意次による政治改革開始。「田沼時代」ともいわれる(~1786年)
【1767年】 上杉鷹山が米沢藩主となり、藩政改革を開始
【1770年代】 東北地方の冷害
【1782年】 気象異常による天明の大飢饉が起きる(~1787年)

年表2:1783年~

【1783年4月】 岩木山の噴火
【1783年6月】 アイスランド・ラキ火山の大噴火とグリムスヴォトンの噴火
【1783年8月】 浅間山の大噴火
【1786年】 10代将軍・徳川家治死去。家斉が後を継ぎ11代将軍に就任
【1786年】 老中・田沼意次失脚
【1787年】 老中・松平定信の「寛政の改革」が始まる(~1793年)

まとめ

江戸時代中期に起きた「天明の大飢饉」についてまとめていきましたがいかがだったでしょうか?

人の力では抗えない自然の威力と民衆の一人ではどうすることもできない政治の影響が招いた悲劇の飢饉。現代日本に住む私たちも、地震や台風をはじめとする自然災害の恐怖にさらされていることを考えれば、安易に昔の出来事と流すことはできないのかもしれませんね。

関連するまとめ

編集部
この記事のライター
Cherish編集部

人気の記事

人気のあるまとめランキング

新着一覧

最近公開されたまとめ