元日本赤軍・岡本公三とは?|生い立ち、テルアビブ空港乱射事件など

無辜(むこ)の人々を殺戮し、自ら爆死して果てる「無差別自爆テロ」。テロリズムの常識を変えた「テルアビブ空港乱射事件」の犯人は岡本公三ら3名の日本赤軍メンバーでした。世界革命戦争を試みた彼らは、どのような人生を歩んだのか。事件の経緯や背景を詳しくまとめました。

元日本赤軍・岡本公三とは?|生い立ち、テルアビブ空港乱射事件などのイメージ

目次

  1. 1テルアビブ空港乱射事件――岡本公三とは?
  2. 2岡本公三とは――テロリストか、それとも英雄か
  3. 3"世界武力革命"に陶酔した学生たちの暴走
  4. 4「連合赤軍」と「日本赤軍」の誕生(1971年)
  5. 5岡本公三と日本赤軍の「その後」
  6. 6「日本赤軍」後の世界――21世紀のテロ事件史
  7. 7「日本赤軍」の過去を忘れてはいけない

テルアビブ空港乱射事件――岡本公三とは?

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昭和47年(1972年)5月、イスラエルの「テルアビブ・ロッド国際空港」で死者26名、重軽傷者73名を出した銃乱射事件が発生しました。

事件現場で取り押さえられた犯人は、「岡本公三」と名乗る25歳の日本人青年でした。岡本公三の供述や首謀者グループの声明などから、この犯行がPFLP(パレスチナ人民解放戦線)と無名のテログループ「日本赤軍」によるもの、と判明します。

しかし多くの日本人は、この「テルアビブ空港乱射事件」をあまり鮮明に記憶していません。3か月前に起きていた「連合赤軍・浅間山荘事件」や、わずか2週間前に国民を沸かせた「沖縄返還」の印象があまりにも強すぎたためです。

「テルアビブ空港乱射事件」がどのような経緯で発生したのか。まずはその詳細を、じっくりと見ていきましょう。

衝撃の無差別自爆テロ――犯人は日本人だった

テルアビブは、東地中海沿岸に位置する、イスラエルの中核都市のひとつです。首都エルサレムとテルアビブを結ぶ直線上に、銃乱射事件の舞台となった「ロッド国際空港」(現ベン・ガーオン空港)がありました。

昭和47年(1972年)5月30日、同空港カウンター前に並ぶプエルトリコの観光客グループや空港職員らに向けて、突如として自動小銃の弾丸が乱射されます。

飛び散るガラス片、次々と凶弾に倒れていく人々――。ロッド国際空港は一瞬にして血の海と化し、26名が死亡、73名が重軽傷を負う大惨事となりました。

警備員の反撃の末に取り押さえられたのは、日本人青年・岡本公三(当時25)。戦争を知らずに育った若い日本人の凶行を、世界中のメディアは大きな驚きをもって伝えました。

この無差別乱射により、乗降客を中心に26人が殺害され、73人が重軽傷を負った。死傷者の約8割が巡礼目的で訪れたプエルトリコ人であった。
死者のうち17人がプエルトリコ人(アメリカ国籍)、8人がイスラエル人、1人はカナダ人であった。犠牲者の中には、後にイスラエルの大統領となるエフライム・カツィールの兄で著名な科学者だったアーロン・カツィールも含まれている。

岡本公三の共犯者2名は現場で死亡

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銃乱射の実行犯は岡本公三をはじめとする日本人3名でしたが、うち2名はすでに現場で死亡していました。奥平剛士(当時27)と安田安之(当時25)の2名です。

当時、警視庁刑務部参事官だった佐々淳行氏の回想によれば、死亡した二人は顎の下に手榴弾を当てて、顔と指紋をすべて吹き飛ばすという、PFLP指導の自爆方法を忠実に実行した、といいます。

無差別に観光客を打ち殺す「無差別テロ」も前代未聞でしたが、実行犯が自爆し、首謀者がいっさい姿を現さない「自爆テロ」を確立したという意味でも、テルアビブ空港乱射事件は大変ショッキングな出来事でした。

死んでオリオンの星になろうじゃないか

「死ぬ気で革命に取り組んだって達成は難しいのに、死ぬ気のない人間が革命をやろうとしてもダメなんだ。三人で華々しく死んで、オリオンの星になろうじゃないか――」

犯行前、奥平剛士は2歳年下の岡本公三と安田安之に向って、こう言ったといいます。この発言の背景には、同年2月の「浅間山荘事件」で自滅した「連合赤軍」グループへの激しい憤りがありました。

こうして強い決意をもって自爆テロに参加した岡本公三でしたが、奥平と安田が自爆を遂げた一方で、なぜか岡本公三だけは生き残り、イスラエル当局に取り押さえられてしまいました。

なぜ岡本公三だけが生き残ったか

岡本公三だけが生き残った理由について、佐々淳行氏はこう述べています。

「岡本公三だけは映画の見過ぎでね、ジェット旅客機に手榴弾をぶつければ紅蓮の炎を上げて爆発炎上するというね、これ、映画の見過ぎなんです。現実の旅客機なんていうのは、そんな簡単に手榴弾で爆発するようなもんじゃないです」

「爆発炎上する旅客機に身を投じて自殺しようということで、最後の一発の武器も使っちゃうんですね。それで、捕らえられる。生け捕りになるんです」

こうして一人生き残り、岡本公三は逮捕されました。そして、彼が生きて捕まったことが、テルアビブ空港乱射事件を新たな展開へと導きました。

PFLPと重信房子による声明――「日本赤軍」結成

(パレスチナ解放人民戦線)は事件後、日本人活動家・重信房子と共同声明を発表し、この事件の日を「『日本赤軍』誕生の日」と宣言しました。

犯行動機は、3週間前の5月8日に失敗した「サベナ航空ハイジャック事件」の報復。イスラエル政府に逮捕されている317名の仲間の解放を要求したハイジャックでしたが、イスラエル当局に制圧され、その報復としてロッド国際空港を襲撃することにしたのです。

パレスチナ解放人民戦線(PFLP)は「報復」としてイスラエルのロッド国際空港を襲撃することを計画した。だが、アラブ人ではロッド国際空港の厳重警戒を潜り抜けるのは困難と予想されたため、PFLPは日本赤軍の奥平に協力を依頼し、日本人によるロッド国際空港の襲撃が行われた。

現在進行形で紛争が行われている地域に活動拠点をもち、現地の武装集団と結託して世界革命戦争を起こす目的で、重信房子ら「赤軍派」はレバノンに渡航。同国ベッカー高原の軍事キャンプを通じてPFLPと連携し、ロッド国際空港襲撃を引き受けました。

彼らはこの事件を機に、「日本赤軍」を自称するようになります。つまりテルアビブ空港乱射事件の時点では「日本赤軍」という団体は存在しておらず、この事件は「日本赤軍の前史に属する事件」とされています。

岡本公三とは――テロリストか、それとも英雄か

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一般市民を銃撃するというテロ史上"前代未聞"の凶行に及んだ岡本公三とは、どんな人物なのでしょうか。世界テロ事件史を語るうえで欠かすことのできないテロリストの、事件に至るまでの経歴を見ていきましょう。

岡本公三の略歴

項目 説明
名前 岡本公三(おかもと こうぞう)
生年月日 1947年12月7日
出身地 熊本県葦北郡芦北町
出身校 鹿児島大学農学部林学科

岡本公三は熊本県葦北郡芦北町(八代市の南部、水俣市の北部。八代海に面し、対岸には天草諸島をのぞむ)に生まれました。長兄や次兄と同じ、京都大学への進学を目指しますが、二浪の末、鹿児島大学農学部に進みます。

昭和45年(1970年)3月末、次兄の岡本武を含む共産主義系・武装革命集団「赤軍派」9名による「よど号ハイジャック事件」が発生し、岡本公三は兄の活動に強い影響を受けました。

さらに1971年、鹿児島大学で上映された『赤軍――PFLP・世界戦争宣言』に共鳴し、上映運動を展開していた「赤バス隊」に参加、武力行使をいとわない新左翼活動に身を投じたのです。

そして翌年(1972年)3月、1年前から海外基地を作るためにレバノンに渡航していた重信房子ら「赤軍派」に合流しました。

「新左翼」「赤軍派」とは?

のちに「日本赤軍」を自称する重信房子ら20代の若者たちにとって、政治思想上の最大の敵は英米を中心とした資本主義陣営でした。

東大や京大で「マルクス主義」の講義が盛んだったこともあり、戦後日本のエリート学生の中には、義勇軍としてスタートした旧ソ連陸軍の名称「赤軍」をシンボル視して、資本主義からの解放闘争を主張する者が現れ、闘争を呼びかける学生運動が激化していきました。

「新左翼」とは、暴力革命路線を放棄した既成の左翼運動を批判し、武力行使で理想社会を実現しようとした過激派のことで、「赤軍派」はその一部、ということになります。

マルクス主義は、資本を社会の共有財産に変えることによって、労働者が資本を増殖するためだけに生きるという賃労働の悲惨な性質を廃止し、階級のない協同社会をめざすとしている

パレスチナの英雄となった岡本公三

自爆に失敗した岡本公三は、生き残ったことで意外な運命をたどることになります。イスラエルに父祖の土地を奪われたとして怒りに燃えていたパレスチナの人々の間で、「日本赤軍・岡本公三」はいつしか英雄視され、その存在自体がアラブ情勢に強く影響するまでに至ったのです。

さらに、日本赤軍グループ3名が実行した「無差別自爆テロ」は、アラブやペルシャの反米勢力の間で「テロの定石」として扱われ、頻繁に「無差別自爆テロ」が発生していきます。

※キャプチャーの人物は岡本公三ではありません。

"世界武力革命"に陶酔した学生たちの暴走

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日本赤軍の原点を探ると、最後に必ず突き当たる事件があります。

それは、昭和44年(1969年)の「東大安田講堂事件」と、昭和45年(1970年)の「よど号ハイジャック事件」です。

武装を正当化した最初の事件「東大安田講堂事件」

日本人なら誰もが一度は目にしたことがあるだろう「東大安田講堂事件」の映像は、いまや昭和40年代の学生運動の象徴的シーンとして定着しています。

事件は昭和44年(1969年)1月18日から19日にかけて発生しました。とは言っても、この二日間は一年近くにわたって続いた闘争の最終局面にすぎません。

東大安田講堂事件の背景

昭和35年(1960年)の「安保闘争」以来くすぶっていた学生運動の火が、昭和43年(1968年)には、ベトナム戦争の激化日米安保条約の自動延長問題を皮切りに、再び盛んになりつつありました。

そんな中、授業料値上げ阻止や学園民主化を訴える過激派組織・全学共闘会議(全共闘)と、武力行使を辞さない新左翼が東大安田講堂を繰り返し占拠。学生主導のストライキが行われるなどして、東大総長や全学部長が辞任に追い込まれていきました。

昭和44年(1969年)1月中旬、佐藤栄作政権はついに警察力の動員を決断。占拠を続ける全共闘の学生らと、激しい攻防戦を繰り広げました。

国外に拠点を求めた「よど号ハイジャック事件」

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「東大安田講堂事件」に見られた警察力動員は、当時の国内政治に強い影響力を持っていた学生運動家たちにとって、非合法な闘争を続けるうえでの脅威となりました。

当時の学生運動でもっとも過激だったとされる「赤軍派」(共産主義者同盟・赤軍派)の一部は、活動の継続には国外に活動拠点を作って世界革命戦争を起こし、実力をつけたうえで日本革命を実現する、という「国際根拠地論」を検討し、実際に、海外にメンバーを送り込む計画が進行します。

計画実行の直前、赤軍派議長の塩見孝也が公安警察に別件(大菩薩峠事件。首相官邸襲撃を計画し大菩薩峠で予行演習をしていた)で逮捕されたことにより、国外亡命実行グループのリーダー田宮高麿(たみや たかまろ)は計画の前倒しを決断。

昭和45年(1970年)3月31日、日航機「よど号」をハイジャックして北朝鮮への亡命を図ったのです。

1970年(昭和45年)3月31日、羽田空港発板付空港(現:福岡空港)行きの日本航空351便(ボーイング727-89型機、愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。
犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。よど号は福岡空港と韓国の金浦国際空港での2回の着陸を経た後、4月3日に北朝鮮の美林飛行場に到着。犯人グループはそのまま亡命した。

「よど号事件」のメンバーに岡本公三の実兄も

「よど号ハイジャック事件」によって、北朝鮮に亡命を果たしたメンバーの一人が、「テルアビブ空港乱射事件」の岡本公三の兄、岡本武です。岡本公三にとって、兄の岡本武は「国際根拠地論」を実践した活動家として、身近な手本になりました。

熊本県出身。熊本県立熊本高等学校卒業。京都大学農学部中退。1968年に東大安田講堂事件に参加。1970年に仲間8人とともによど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に亡命。
1976年に結婚。当初、結婚相手は現地の朝鮮人女性と発表されていたが、後に高知県出身の福留貴美子であることが確認された。
よど号メンバーの妻のほとんどが北朝鮮の思想に共感を持っていたことが考えられる中、福留のみ親北朝鮮思想が確認されておらず、一部には北朝鮮に拉致されたとする見方もある。

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※写真左下が岡本武。目元の雰囲気が弟・岡本公三とよく似ています。

「連合赤軍」と「日本赤軍」の誕生(1971年)

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「東大安田講堂事件」による学生運動の鎮静化と、「よど号ハイジャック事件」による国外脱出劇は、多くの活動家に重大な影響をもたらしました。

特に「よど号ハイジャック事件」では、実行犯グループが亡命した北朝鮮が、彼らの理想とかけ離れた、個人崇拝主義の独裁国家(スターリン主義国家)であることが露見したため、「国際根拠地論」は雲をつかむような空想話として説得力を失いました。

しかし「国際根拠地論」に望みを託し、パレスチナで世界革命戦争を起こそうと企てるグループがいました。その後、長く国外で活動を続けた、重信房子の率いる「日本赤軍」です。

日本赤軍を率いた美人カリスマ「重信房子」

「明大ブント」(ブント=共産主義者同盟)のメンバーとして活動していた重信房子は、もともとキッコーマンに勤務しながら明治大学文学部の夜間部に通っていた、教員志望の社会人学生でした。

同じくキリンビールに勤務しながら明大法学部の夜間部に通っていた遠山美枝子と意気投合したのち、本格的な過激派活動の渦に身を投じていったのです。

「よど号事件」の実質的失敗によって求心力が低下していた赤軍派の中で、弁が立ち、高い社交スキルをもつ重信房子は、それまでの後方支援の役割から脱却し、次第に具体的行動の中心人物になる決意を固めていきます。

奥平剛士と偽装結婚後、レバノンへ出国

重信房子はこれまでの活動の中で逮捕歴があったことで、公安警察の監視が厳しく、国外出国が難しい状況にありました。

そこで、尊敬していた京都パルチザンの活動家、奥平剛士と偽装結婚をして「奥平房子」と改名したうえで、昭和46年(1971年)2月、共にレバノンの首都・ベイルートへと渡りました。

渡航後の重信房子は、レバノン国内のベッカー高原にて「PFLP」(パレスチナ人民解放戦線)と連携し、本格的なテロ活動の機会をじっと狙っていたのです。

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※上の写真は、重信房子と偽装結婚をしてベイルートに渡り、のちにテルアビブ空港乱射事件を起こして死亡した奥平剛士(事件当時27)。

※ちなみに動画に登場するインタビュアー(司会者)・山口淑子氏は、戦前から「李香蘭」の名で有名だった満州映画協会のスター女優でした。

日本赤軍(にほんせきぐん、英語: Japanese Red Army)は、1971年から2001年まで存在した日本の新左翼系団体、世界同時革命を目指した武装集団。
日本革命を世界革命の一環と位置付け、中東など海外に拠点を置き、1970年代から1980年代にかけて多数の武装闘争事件(日本赤軍事件)を起こした。
1971年に共産主義者同盟赤軍派の重信房子、奥平剛士らが結成、2001年に重信自身が解散を表明した。アメリカ合衆国国務省の国際テロリズム対策室は日本赤軍を「国際テロ組織」と認定していたが、解散により認定解除した。

残虐極まりない"総括"で自滅した「連合赤軍」

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重信房子がレバノンに渡った昭和46年(1971年)、日本国内では求心力の低下した新左翼活動家たちの大規模な改編が行われ、「連合赤軍」が誕生しました

同年12月、「連合赤軍」は榛名山に山岳ベースを構え、そこで合同軍事訓練を行います。連合赤軍のトップについた赤軍派出身の森恒夫と、革命左派出身の永田洋子を中心とした「総括」(暴力でグループ内の思想統一を図る)が横行。

この「総括」は日に日にエスカレートしていき、大晦日から翌年にかけての約2か月の間に、実に12名もの連合赤軍メンバーが粛清(殺害)されました(山岳ベース事件)。

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連合赤軍(れんごうせきぐん)は、1971年から1972年にかけて活動した日本のテロ組織、新左翼組織の1つ。共産主義者同盟赤軍派(赤軍派)と日本共産党(革命左派)神奈川県委員会(京浜安保共闘)が合流して結成された。山岳ベース事件、あさま山荘事件などの殺人事件、リンチ殺人を起こした。

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明治大学の夜間部に通っていた遠山美枝子は、「明治大学現代思想研究会」で重信房子らと活動を共にしていました。

パレスチナでの活動基地を立ち上げるためにレバノンに渡航する重信房子を見送り、その後は連合赤軍メンバーとして活動していましたが、「女を武器にして男性幹部に近づく」との理由で「総括」対象に。1972年1月7日、リンチを受けて死亡します。

逃亡の末に起きた「浅間山荘事件」

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連合赤軍として合流する以前、革命左派は猟銃店の襲撃、赤軍派は銀行強盗によって、それぞれが武器・弾薬や活動資金を手に入れていました。

群馬県警はこれらの犯罪の捜査で、大規模な捜索隊を投入。ラジオで数日前まで使っていた山岳ベースが警察に発見されたことを知った幹部・坂口弘ら連合赤軍メンバーは、すぐさま逃走を図ります。

資金調達のために上京していた森、永田の両幹部は、山岳ベースに戻ったところを警察に発見され、そのまま逮捕されました。

その後も続々と逮捕者や逃走者が出る中、最後に残ったメンバー5名が、人質(山荘管理人の妻)をとって浅間山荘に立てこもった事件が「浅間山荘事件」です。

激しい銃撃戦や、鉄球による山荘破壊シーンなどが生中継で全国放送され、民放各局とNHKを合わせた視聴率は89.7%にも達しました。つまり、ほとんどすべての日本人が、この事件の様子をテレビで視聴していたことになります。

残虐な活動を暴かれ、国内の新左翼活動は崩壊

その思想だけでなく、局面ごとに下されたあらゆる判断で未熟さと残酷さが露呈した「連合赤軍」は、国内の新左翼活動を完全に崩壊させました。

リーダーの森恒夫は逮捕後、獄中で自殺しました。浅間山荘事件のメンバー5名のうち唯一の「赤軍派」だった坂東國男は、のちに日本赤軍の「クアラルンプール事件」の影響で超法規的措置による釈放・国外脱出を遂げ、日本赤軍に合流しました。

反西側陣営・国際テロを乱発した「日本赤軍」

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昭和47年(1972年)2月の「浅間山荘事件」を知った奥平剛士・重信房子のグループは、国内の赤軍派に強い憤りを覚えながら、ついに「テルアビブ空港乱射事件」を実行、後を託された重信房子が「日本赤軍」の誕生を宣言することとなりました。

写真の人物は、テルアビブ空港乱射事件の実行犯・奥平剛士の実弟、奥平純三です。京都大学工学部に在学中、兄の剛士が乱射事件で死亡。昭和48年(1973年)に建設会社に就職しますが、翌年、日本赤軍のメンバーとなり、実行部隊の中心人物になっていきます。

日本赤軍は世界のテロ組織の悪しき教科書になった

岡本公三や奥平剛士の空港乱射事件でパレスチナ人から英雄視されていた日本赤軍は、奥平純三をはじめとする実行部隊によって、主に囚人の釈放を条件としたハイジャック、大使館占拠事件を繰り返しました。

そしてこの活動は、パレスチナ問題や冷戦をめぐる複雑な政治状況により、事件発生当事国の政府に超法規的措置を取らせるなど、21世紀のテロリズムに深く影響する「テロの成功事例」を数多く残してしまいました。

事件 発生年月日
テルアビブ空港乱射事件 1972年5月30日
ドバイ日航機ハイジャック事件 1973年7月20日
シンガポール・シージャック事件 1974年1月31日
在クウェート日本大使館占拠事件 1974年2月6日
ハーグ・仏大使館占拠事件 1974年9月13日
クアラルンプール事件 1975年8月4日
ダッカ日航機ハイジャック事件 1977年9月28日
ジャカルタ事件 1986年5月14日
三井物産マニラ支店長誘拐事件 1986年11月15日
ローマ事件 1987年6月9日

日本赤軍のテロに屈した"西側陣営"日本政府

昭和52年(1977年)に起こったダッカ・ハイジャック事件は、彼らの言う「アメリカ帝国主義」の成功例として世界経済を席巻していた日本にとって、屈辱的な結果を招いた痛恨の事件となりました。

昭和52年(1977年)9月28日、パリ=シャルル・ド・ゴール空港発、ギリシャ、エジプト、インド、香港経由、成田空港行きの日航機が、インドのムンバイ国際空港を離陸した直後、日本赤軍によってハイジャックされます。

日本赤軍は、前年に偽造旅券の容疑で逮捕されていた奥平純三を含む9名のメンバーの釈放と乗客の身代金600万ドル(当時の為替レートで約16億円)を要求。

なおかつ、この要求を突き付けた実行犯の中には、「浅間山荘事件」の犯人で、クアラルンプール事件によって超法規的に釈放されていた坂東國男が加わっていたのです。

「人命は地球より重し」

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福田赳夫首相(当時)は、「人命は地球より重し」として日本赤軍の要求を呑み、日本赤軍への参加を拒否した3名を除く6名の囚人・刑事被告人の釈放と、身代金の支払いを決定しました。

さらにこの事件は、日本赤軍がハイジャック機の強行着陸先であったバングラディシュの政府を交渉役に指名したことで、バングラディシュ政府要人が対応に追われる隙を突いた軍事クーデターも発生しました(のちに鎮圧)。

日本赤軍のテロ行為に屈服し、他国政府にも多大な迷惑をかけた日本は、テロ対応の悪しき前例として、世界中から「テロリズム対策の反面教師」とみなされるようになりました。

ダッカ日航機ハイジャック事件では「人命は地球より重い」として犯人側の人質解放の条件を呑み、身代金の支払いおよび、超法規的措置として6人の刑事被告人や囚人の引き渡しを行ったことで、テロリストの脅迫に屈したと批判を浴びることとなった

岡本公三と日本赤軍の「その後」

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岡本公三は、テルアビブ空港乱射事件で逮捕されたのち、イスラエル当局によって厳しい拷問に遭います。

岡本公三に拷問を施したのは、イスラエル諜報特務庁、通称「モサド」によるものと言われています。拷問の手法は、汚水を大量に飲ませる「水責め」、逆さ吊り、焼きゴテ等、さまざまな手法が噂されていますが、実際にどうだったのかは定かではありません。

しかし確実に言えることは、この拷問により、岡本公三は一時期、廃人同然になるほどの身体的ダメージを負って言語障害が生じるなど、死の間際まで責め立てられた、ということです。

故郷の海に天草四郎の歴史を思い、兄の影響を受け、映画に感化されて赤軍派の活動に身を投じた岡本公三にとって、25歳の初夏に犯した罪はあまりにも重すぎました。

岡本公三は紆余曲折を経て、レバノンに亡命

イスラエルは岡本公三の死刑も検討しましたが、最終的には終身刑とし、事件の13年後、昭和60年(1985年)5月、岡本公三はPFLPの総司令部との捕虜交換というかたちで釈放されました。

その後、岡本公三はレバノンに潜伏していましたが、平成9年(1997年)、岡本公三を含む日本赤軍メンバー5名が検挙され、禁固3年が言い渡されました。

3年後、出所した日本赤軍メンバー5名のうち4名は日本に送還されましたが、岡本公三のレバノン国内での名声はすさまじく、岡本公三だけはレバノンへの政治亡命が認められました。

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重信房子の逮捕――日本赤軍のテロ活動に区切り

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岡本公三がレバノンに亡命した平成12年(2000年)、日本に潜伏中だった日本赤軍リーダーの重信房子がついに逮捕されました。

逮捕時、重信房子は報道カメラの前で両手の親指を立てるしぐさをしきりにやってみせ、「残念だけど頑張るから」と言い放つなど、日本赤軍による革命闘争への衰えぬ意欲を示してみせました。

「日本赤軍」解散宣言

しかし日本赤軍の活動は、すでにほとんど意義を失っていました。冷戦の終結により、社会主義陣営が崩壊したためです。

逮捕の翌年、重信房子は獄中から「日本赤軍」の解散を表明しました。瞬く間に「世界で最も警戒される国際テロ組織」へと変貌していった日本赤軍の活動は、こうして区切りを迎えたのです。

いまも逃亡を続ける日本赤軍・元メンバーたち

「日本赤軍」の解散宣言があったとはいえ、それは獄中で重信房子が表明したものに過ぎず、いまでも日本赤軍・元メンバーたちの多くが逃亡を続けています

日本赤軍の活動の中心にいた奥平純三は、いまではその生死すら定かではありません。連合赤軍に所属して「浅間山荘事件」を起こしたのち、クアラルンプール事件で超法規的措置により釈放された坂東國男も、日本赤軍の活動に参加後、いまだに所在が不明です。

「テルアビブ空港乱射事件」からスタートした日本赤軍の一連の事件は、今日でも世界中に影響を与えています。「解散宣言」が出されたとはいえ、日本赤軍にまつわる一連の出来事は、まだ本当の解決を見ていないのです。

「日本赤軍」後の世界――21世紀のテロ事件史

日本赤軍の終焉と共に、世界は21世紀に入りました。そして人々は、にわかには信じられないテロの現実をいくつも目の当たりにしました。

パンドラの箱が開いた「アメリカ同時多発テロ」

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平成13年(2001年)9月11日、午前8時46分(現地時間)、ニューヨーク・マンハッタン島「世界貿易センタービル」の北棟(110階建て)に、ハイジャックされたアメリカン航空11便(ボーイング767)が衝突しました。

さらにその17分後、今度は同ビル南棟に、同じくハイジャックされたユナイテッド航空175便(ボーイング757)が衝突。世界経済の象徴ともいえるツインタワーは、1時間ほど炎上を続けていましたが、まもなく南棟から順に崩壊しました。

テロ攻撃はニューヨークに留まらず、首都ワシントンでも国防総省(通称ペンタゴン)にも旅客機が突入、もう一機、国会議事堂を狙った旅客機は墜落しました(乗客がテロ阻止のためにコックピット内に進入したとも言われている)。

一連のテロは「9・11 アメリカ同時多発テロ」と呼ばれ、死者2996名(うち自爆テロ犯は19名)を出す大惨事となりました。

犯行グループはテロ組織「アルカイダ」か

アメリカ政府は犯行グループを、サウジアラビア人のウサマ・ビンラディン率いる「アルカイダ」と断定しましたが、事件から20年近く経つ今でも、その真相はわかっていません。

なぜなら「自爆テロ」は犯人が自爆し、証拠を消してしまう手法だからです。そのため犯行の指示をしたテロ組織中枢に、警察は手を出せないのです。

アメリカ政府は、のちにウサマ・ビンラディン殺害作戦を実行しました。アメリカ石油メジャーによる石油資源の支配、米軍のサウジ駐留など、中東のテロ組織が抱く「反米感情」は凄まじいものがあり、ビンラディンはその象徴的人物であったためです。

イギリスの首都ロンドンでもテロ発生

平成17年(2005年)7月7日には、イギリスの首都ロンドンで、地下鉄の3か所とバスが爆破されるテロが発生しました。イギリス政府はエジプト人青年を誤認逮捕、のちに「アルカイダ」を名乗るグループから犯行声明が発表されました。

イギリス国内ではムスリム(イスラム教徒)やアラブ系住人への嫌がらせが発生するなど、イスラム教やアラブ人に対する偏見が広がる結果となってしまいました。

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その10年後、パリでも同時多発テロが発生

NAVER まとめ

平成27年(2015年)11月13日には、フランスの首都パリ市街と郊外のサン=ドニ商業地区で同時多発テロが起きました。サッカー・フランス代表とドイツ代表の一戦が行われていたサッカー・スタジアムや、近隣の飲食店などで爆弾自爆テロが実行されたのです。

死者130名の悲劇を引き起こした犯行グループの首謀者は、ISIL(イスラム国)傘下のイスラム過激派出身で、他にアルジェリア系フランス人や、ベルギー人、シリア人が発行に加わりました。この事件では、ISILのテロ活動に密かに共鳴する若者たちが多いことが話題となりました。

ISIL(イスラム国)の猛威

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ISILは、「ISIS」や「IS」など、さまざまな呼び名で知られるイスラム過激派組織で、イラク・シリアにまたがる地域で活動し、一時期は同地域の政治的支配にも及びました。

平成31年(2019年)2月現在でも、ISILによるイラク・シリア地域での復権の可能性が指摘されており、彼らの活動はいまだに続いています。

多くの日本人は、平成27年(2015年)1月に起こった拘束邦人2名殺害事件を鮮明に記憶していることでしょう。 湯川遥菜(ゆかわ はるな)さんと後藤健二さんが殺害され、その動画が公開されるという、なんとも痛ましい事件でした。

「テルアビブ空港乱射事件」は無差別自爆テロの源流

「テルアビブ空港乱射事件」は無差別自爆テロの源流と言えます。自爆したとされる奥平、安田の両名は実はイスラエルの反撃によって射殺されたのだ、という説ももちろん存在しますが、大事なのは結果ではなく、彼らの意図にこそあるのです。

戦いのためには無実の市民を殺しても構わない、そして自爆テロなら首謀者グループは繰り返しテロを指示できる――。このような恐ろしいセオリーを提示したという意味で、日本赤軍が世界に与えた影響は計り知れないのです。

「日本赤軍」の過去を忘れてはいけない

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「テルアビブ空港乱射事件」に関わった岡本公三や重信房子は、最初は純粋な心を持った若者たちでした。しかし彼らは、一般市民に危害を与える道を選択しました。彼らが残した、あまりにも一途で、あまりにも残酷な足跡を、私たちは決して忘れてはいけません。

もし新たなテロ事件のニュースを目にしたときは、岡本公三と日本赤軍の過去を思い出し、あなたの大切な誰かに「昔、こんなことがあったんだよ」とぜひ教えてあげてください。

過去の事実を知ったうえでテロ事件のニュースを見れば、決して他人事ではないことを実感できるはずです。誰でもいずれ選挙権を持つことになる日本人にとって、過去の出来事を知ることは何よりも大切なのです。

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