2021年08月02日公開
2021年08月02日更新
上杉謙信...実は女性だった!? 女性説のある戦国武将&証拠画像まとめ
最も有名な最強の戦国武将の1人上杉謙信が実は女性だったという説。教科書が全て事実とは限らない!?戦国武将で最強と謳われた上杉謙信がまさか女性だなんて信じられませんよね。しかし、これらの事実を並べると、この「実は女性説」を信じることになりますよ。
目次
- 1あの最強戦国武将上杉謙信に女性説が!
- 2戦国時代最強武将上杉謙信に女性説が浮上する8つの都市伝説
- 31個目の都市伝説は、上杉謙信は、生涯独身を貫いていた。
- 42個目の都市伝説は、織田信長より屏風を贈られている。
- 53個目の都市伝説は、有名な肖像画は江戸時代に描かれたものである。
- 64個目の都市伝説は、毎月10日前後に腹痛を訴えていた。
- 75個目の都市伝説は、南蛮人が上杉謙信を「叔母」と表記している。
- 86個目の都市伝説は、上杉謙信のことを語り継いだ歌にある。
- 97個目の都市伝説は、上杉謙信の身長の表現方法にある。
- 108個目の都市伝説は、毘沙門天の化身であると自ら称していた。
- 11戦国時代に最強とも呼ばれる武将になぜこのような説が生まれるのか
- 12女武将井伊直虎とは
- 13戦国武将上杉謙信女性説のまとめ
あの最強戦国武将上杉謙信に女性説が!
上杉謙信の女性説
歴史小説家の八切止夫氏が1968年に提唱した仮説です。それを元に更に様々な歴史の証言から女性説に深く切り込んでいきたいと思います。
今更恥ずかしくて誰にも聞けない。戦国時代の最強武将の1人上杉謙信とは。
出典: http://olbibo.hateblo.jp
歴史の教科書にも記載されている有名な肖像画
1530年2月18日~1578年4月19日没。越後国の守護代を務めた長尾氏出身で、元の名を長尾景虎と言います。後に関東管領上杉憲政から山内上杉氏の家督を譲られた際に上杉正虎と改名します。更に室町幕府将軍足利義輝より偏諱(へんき=自分の名前の一字を授けること)を受けて、最終的に上杉輝虎と名乗ります。上杉謙信とは不識庵謙信という法号からきています。
呼び名として「越後の虎」や「越後の龍」とも呼ばれ当時の戦国武将からは大変恐れられました。軍神として天下無双を誇った上杉謙信の戦いの中で最も歴史上後世に語り継がれているのは戦国武将武田信玄との川中島の戦いでしょう。何度も何度もあいまみえた両者。有名な「敵に塩を送る」というエピソードは内陸に所領を構えている武田信玄が今川氏真に塩止めを受け、塩が不足状態になったことに対して上杉謙信はそのような卑怯なことはせずに戦により決着をつけるのが武将たるもので、我々から塩を送ろうというものです。ですが、これに基づく資料は現存しておらず謙信が塩止めをしたという資料もないことから、後世の人々が作った逸話とも言われています。
こちらの画像の肖像画は江戸時代に描かれたものであり、髭を蓄え女性には全く見えませんが…。
出典: http://mtunder7252.blog.fc2.com
上杉謙信と武田信玄 川中島古戦場の銅像はあまりにも有名な戦国時代のワンシーンではないでしょうか。
出典: https://twitter.com
こちらの画像は上杉謙信の居城、春日山城の地図
戦国時代最強の武将と謳われた上杉謙信の性格
・戦国時代に皆無と言っていいほど、領土的野心ない性格
・人の道理と義理人情に厚かった性格
・正義感が強く自分の利益の為の戦はしない性格
・最後の最後まで「義」を通す性格
・家臣に感謝の気持ちをもつことが出来る性格
・武田家が長篠の合戦にて、敗れた際も落ち目に付け込んで攻め入るの本意ではないとして、人の弱みに付け込まない性格
様々な言い伝えを残す謙信ですが、非常にまっすぐな性格の持ち主であったことが伺い知ることが出来ます。
戦国時代最強武将上杉謙信に女性説が浮上する8つの都市伝説
それでは、様々な歴史の言い伝えや肖像画、画像、などから上杉謙信がなぜ女性と言われる都市伝説的な逸話が発生したのか検証しましょう。
1個目の都市伝説は、上杉謙信は、生涯独身を貫いていた。
なぜ嫡子が必要と分かっていて生涯独身を貫いたのか。
出典: https://opac.lib.city.nagaoka.niigata.jp
戦国時代はいかに世継ぎの子を確実に残すかというものは、今の時代よりもはるかに大きなポイントです。それを放棄するということは、男性として世継ぎを残すことが不可能ではなかったからではないかという都市伝説。
また、書状や願文は筆跡、表現などが繊細で非常に女性的でありました。
こちらの書状は、謙信が関東侵攻の際北条高広が寝返ったことに憤慨しつつ、この手紙の宛名の人物は不明ですが北条高広とは違い宛名先の人物へ変わらぬ奉公に対し感謝している内容です。
2個目の都市伝説は、織田信長より屏風を贈られている。
通例では武将に贈るものではない。
出典: http://www.nara-u.ac.jp
当時、屏風は姫君への婚礼調度品として送られ、そのテーマとして多かった図柄が源氏物語図屏風。戦国武将で源氏物語図屏風を贈られたのは謙信以外にいません。このことより、女性説が語られる1つとなっています。
3個目の都市伝説は、有名な肖像画は江戸時代に描かれたものである。
なぜ、風貌を変えて描く必要があったのか。
出典: https://ameblo.jp
上杉謙信の肖像画は一般的に髭をたくわえている肖像画が多く見受けられますが、戦国時代に描かれたより謙信が生きていた時代に近い肖像画は髭は存在していません。有名な肖像画は江戸時代に描かれており、逸話等を元に描かれているものです。こちらの画像は生前描かれたものとして伝えられていますが、当時の描かれる戦国大名で髭を蓄えていない戦国武将も珍しく、また肖像画もどことなく女性的にも見えます。とても当時軍神として恐れられていたとは思えない姿ですね。
また江戸時代に入り武家諸法度が制定され、男子でなければ城主になることが出来なくなりました。謙信が女性であることを知られるとお家断絶として江戸幕府に取り潰される危険性があるために、謙信をあくまでも男として描くことで上杉家を守ったとされています。
ちなみにお家取り潰しにあった大名は当時130大名にも及びました。いかに徳川家が他大名家の取り潰しに躍起になっていたかが伺えます。
同じ時代の大名クラスの肖像画をみてみます。
出典: http://www.shouzou.com
織田信長の肖像画として伝えられる物で作者は1583年信長の死後ジョバンニ・ニコラオによって描かれたとされ、髭を立派に蓄えています。
出典: https://blogs.yahoo.co.jp
徳川家康もまた髭を蓄えています。
出典: http://www.shouzou.com
豊臣秀吉も髭を蓄えています。
出典: http://www.shouzou.com
武田信玄の肖像画もまた髭を蓄えています。
勿論、謙信以外の肖像画全て髭が描かれているという圧倒的な証拠にはなりませんが、髭が描かれていない肖像画は少数派であることには間違いありません。
4個目の都市伝説は、毎月10日前後に腹痛を訴えていた。
女性特有の周期的な痛みを連想させるものをなぜ隠し通したのか。
出典: http://baobabtree.jugem.jp
謙信は大虫という婦人病に悩まされていたと残されており、これは女性の月経ではないかと考察されます。たとえ陣中であっても人を引き払い、お堂にこもっていたとされています。何か知られてはいけないことでもあったのでしょうか。
※画像はイメージです。
5個目の都市伝説は、南蛮人が上杉謙信を「叔母」と表記している。
上杉景勝の叔父にあたるはずの謙信がなぜ叔母と表記されるのか。
出典: http://www.v-museum.pref.shimane.jp
スペイン国王フェリペ2世へゴンザレスという船乗りが佐渡金山に関する報告書を提出。その中に上杉謙信が上杉景勝の叔母であるという記述が見受けられます。スペイン語で叔母のことを「tia」と明記しますが、叔父のことを「tio」と明記するので、インクの滲み等による勘違いではないかともされています。
画像は洛中洛外図屏風の一部の南蛮人の行列
6個目の都市伝説は、上杉謙信のことを語り継いだ歌にある。
女性を主体とした表現が歌詞に存在する。
越後に伝わる歌の歌詞に、上杉謙信のことを「男も及ばぬ大力無双」と謳われた歌が存在しています。この歌詞の内容から男性にわざわざ「男も及ばぬ」と表現する必要があるでしょうか。このことから女性と推測できます。
7個目の都市伝説は、上杉謙信の身長の表現方法にある。
決して大柄ではない上杉謙信がなぜ大柄と表記されているものがあるのか。
出典: http://rover.seesaa.net
上杉謙信は大柄であったと歴史では伝えられていますが、上杉謙信が愛用した甲冑から推測するにあたってはおよそ五尺三寸ほど(約156cm)であったとされます。むしろ男性では小柄に属し、歴史書類等と照らし合わせても大柄と表現するには180cm近くなればこその表現となります。時の大柄と表現するには女性であればこそではないでしょうか。ちなみに当時の女性の平均身長は145cm程であったとされています。
8個目の都市伝説は、毘沙門天の化身であると自ら称していた。
「大唐西域記」では毘沙門天は女神とも表されている毘沙門天をなぜ化身としたのか。
出典: http://saji.wpblog.jp
上杉謙信を助ける為に足元が泥で汚れていると信仰される泥足毘沙門天
毘沙門天は通常闘いの神であり、武将として毘沙門天を崇めるのことは不思議ではないと思われますが、一説では毘沙門天は女神とされています。このことから女神の化身であると自ら自覚していたとされています。
また各地の白神神社には男女一対のご神体が通例ですが、越後(当時の上杉領)の白神神社のご神体は女性のみが祭られています。
更に、越後白神神社の白山堂には「毘」の旗を差した女神像が祭られています。
出典: http://dominant7.blog51.fc2.com
上杉謙信の軍旗で有名な「毘」の文字
出典: http://saji.wpblog.jp
上杉謙信のもう1種類の軍旗である刀八毘沙門天の画像
戦国時代に最強とも呼ばれる武将になぜこのような説が生まれるのか
戦国時代最強とも呼ばれる上杉謙信にとって、真逆とも言える女性説。事実、謙信は部下の親子に謀反の噂が立ち、兵を起こします。しかし本人たちから実はそれは身内を陥れる為の嘘であり、全く謀反の気はさらさらないと反省後悔をし説明を受けますが、火のない所に煙は立たないとして、親子を成敗してしまいます。この上杉謙信本人の所業から、本人の女性説になんの疑いもなければこのような説は成り立たないとして、女性として認めても良さそうな気もします。
女武将井伊直虎とは
女武将井伊直虎の生い立ち
出典: http://katslog.net
後の女武将井伊直親は、今川家の小領主の子として生まれます。父の直盛に男児がいなかった為に、井伊直親と婚約します。しかし直親の父、直満は今川義元から謀反の疑いありと殺害され、直親も殺害されようとしたところ、直親は信濃の国へ逃亡します。ここで後の女武将井伊直虎との婚約は破綻します。
井伊直虎は、他の男性と婚約の話も出ましたが、これを良しとせずに出家します。ここで井伊直虎は「次郎法師」と名乗り男性として出家します。
この時点でたとえ井伊直虎が環俗しても男性として生きていかなくてはならない為に、直親が井伊家に戻ってきても結婚は不可能となります。
しかも直親は逃亡先の信濃ですでに「ひよ」という女性と結婚していたため、妻にはなれません。では、なぜ井伊直虎は男性として出家したのかという疑問が残り諸説がありますが、井伊家の存続の為に男性が必要となるために念のため、男性として属したのではないかと言われています。
1560年、今川義元が織田信長に桶狭間の戦いでまさかの敗戦。
井伊家当主井伊直盛は戦死し、婚約者であった井伊直親が家督を相続します。この頃直親に息子の「虎松」が誕生します。後の徳川四天王の一人で最も恐れられた井伊の赤鬼「井伊直政」です。
直親は徳川家康に接近を試みますが、今川家に知られてしまい殺害されてしまいます。この時虎松も殺害されそうになりますが、井伊直虎らが命を救う為尽力します。
しかし、井伊直虎の曽祖父である井伊直平が毒殺され、更には重臣や井伊直虎の叔父も戦死してしまい井伊家自体が存亡の危機を迎えます。
ここで、「次郎法師」は環俗し「女武将井伊直虎」として誕生します。
女武将井伊直虎となった後の活躍
出典: http://senjp.com
画像は直虎に育てられた武将井伊直政
女武将として生きることとなった直虎は、直親亡き後、今川、徳川、武田等の大国に挟まれながらも、虎松の養母として育成しながら、井伊家を存続させていきます。
1575年、虎松を徳川家康に仕えさせ、以降徳川家で虎松は活躍し徳川家の中枢に位置するようになりました。
出典: http://samurai-armor.jp
こちらの画像は、井伊直政の「井伊の赤備え」で有名な当世具足。
井伊直政は後に江戸時代になり初代彦根藩主となることから、ゆるきゃらで有名な「ひこにゃん」がこの兜を着用していることでもこの兜は見たことがある方多いのではないでしょうか。
井伊直虎≠次郎法師説
出典: http://miyakomanabi.jp
2017年の大河ドラマにもなっている女武将井伊直虎ですが、実は謙信とは逆に男ではなかったのかという説が2016年12月に京都にて発見されています。詳しくは、井伊直盛の娘である直虎とは別に今川家家臣関口氏経の息子を井伊次郎と名乗らせ当主としたものである。と江戸時代中期に編纂された資料が発見されました。が、直接的に直虎と次郎法師が別人という文字もなく推測であることから、確定には至っていませんが、当たり前と思っている歴史が覆るかもしれない説の見本の1つです。もしかしたら、謙信が女であったという確固たる証拠が後日出てくる可能性も無きにしも非ずですね。
戦国武将上杉謙信女性説のまとめ
出典: https://twitter.com
春日山城より北アルプスを望む
謙信はこの風景を眺め、何を思っていたのでしょうか。
上杉謙信はあまりにも有名な武将の一人で、様々な伝説を残します。勿論、上杉謙信だけではなく歴史には多々諸説があります。それこそが歴史のロマンであり、謙信が女性な訳がないと決めつけてしまうのではなく、女性であったかもしれない説等様々な切り口で歴史を感じることが、歴史を楽しむ1つではないでしょうか。