2021年05月11日公開
2021年05月11日更新
『横浜メリーさん』の生涯~戦後ヨコハマを伝える最後の娼婦~
横浜メリーさんはまことしやかに都市伝説として噂されている人物ですが過去に横浜に確かに存在しました。横浜メリーさんは白い顔の白い姿で街角にたって娼婦を行っていました。 今回は謎の多い娼婦・横浜メリーさんについてご紹介します。
目次
伝説の娼婦・横浜メリーさんとは?
知られざる伝説の娼婦
横浜メリーさんという名前を聞いたことがありますか?
噂で聞いたことがあるかもしれませんが、横浜に住んでいる方ならば実際に見かけたことがあるのではないでしょうか?
伝説の娼婦・ハマのメリーさんの正体に迫る
白黒画像でも分かる真っ白な出で立ち
横浜メリーさんとはかつて横浜に実在していた年寄りの娼婦です。横浜メリーさんは白い顔に白い服を着て建物や街頭で客引きをしていました。
かなり目立つ出で立ちだったので横浜メリーさんを一度でも見かけた人は忘れられない存在となっています。
今回はそんな老娼婦・横浜メリーさんについてご紹介します。横浜メリーさんはどこから来て何故娼婦をしていたのか?また現在はどうしているのかなどについてご紹介します。
また横浜メリーさんに纏わる都市伝説などについても触れていきます。
地元は?経歴は?横浜メリーさんの生涯について
メリーさんの故郷・岡山の画像
横浜メリーさんは1921年生まれの岡山県出身で、農家の家庭に生まれ8人兄妹の長女でした。
横浜メリーさんは小学校を卒業後、家庭の経済状況の関係で中学校には進学せずに青年学校に進学しています。
青年学校とは中学校へ行かない小学校卒業生を対象に教育を施す学校です。
ちなみに横浜メリーさんが通っていた青年学校は岡山県久世青年学校(現在の岡山県立久世高等学校)ではないかと言われています。
恋人と出会った西宮市
横浜メリーさんは青年学校を卒業後、仕事に就き若い頃から結婚・離婚(後ほど詳しく紹介)を経験した後に兵庫県西宮市へ引っ越して女中奉公を行っていました。
そこで出会った1人の米軍人と恋仲に陥り、その米軍人の転勤に合わせて1949年に上京しました。引っ越し先は横須賀でした。
その後横浜メリーさんは横浜へ移り娼婦として働くようになりました。その頃から「横浜メリーさん」として知られるようになり米軍を中心に娼婦の仕事を行っていました。
メリーさんがいた当時の横浜の画像
その後も横浜メリーさんは伊勢佐木町4丁目にある「根岸家」という飲み屋や伊勢佐木モール、今は無くなっている松坂屋などの界隈に通い詰めて娼婦として働いていました。
その頃から横浜メリーさんは親しい仲にある人とは親密に接していましたが、よく知らない人からしたら変な格好をした娼婦でしかないため冷たいまなざしを向けられることもありました。
月日が流れ、横浜メリーさんは段々年を取ってきて、ターゲットとなる米軍の客もいなくなってしまったため貧乏になる一方でした。
それまではラブホテルなどに宿泊していた横浜メリーさんでしたが、やがてホームレスになってしまいました。
そのため夜中にデパートの踊り場や雨風を凌げる場所で寝泊まりする横浜メリーさんの目撃情報もありました。
それでも横浜メリーさんは娼婦として客引きしたり、馴染みの店に顔を出していました。
ホームレスの身であることを知った周りの人達は横浜メリーさんを気遣って時折おこずかいをあげることもありました。
しかし横浜メリーさんは義理堅い性格のため、なけなしのお金で買ったタオルなどをお返ししていました。
そして1995年に体調を崩し横浜から姿を消しました。
情報によると地元・岡山に戻り老人ホームで余生を過ごし、息を引き取ったそうです。
伝説の娼婦・横浜メリーさんの画像と若い頃に迫る
地元・岡山での若い頃
横浜メリーさんは若い頃に地元・岡山で過ごしていた時から派手な格好が好きだったようです。
若い頃は裁縫が好きで自分の服を縫う事もよくあったそうです。
横浜メリーさんの父親は15歳の時に亡くなっており、母親は横浜メリーさんが横浜に行ってから亡くなったそうなので死に目に会っていないそうです。
横浜メリーさんは学校を卒業した後地元の男性と結婚し軍需工場で働きました。しかし仕事が原因で自殺未遂を図ったことがあるらしく、そんなメリーさんに耐えきれなくなった旦那は彼女を実家に帰して離婚してしまっています。
つまり若い頃から結婚と離婚を経験しています。
若い頃に西宮市→横浜へ
その後横浜メリーさんは仕事を求めて兵庫県西宮市から横浜へと流れています。
横浜メリーさんには毎年年末になったら帰郷しているという都市伝説がありましたが、実際には帰っておらず若い頃から家族ともほとんど縁が切れた状態だったそうです。
過去に2回ほど実家に戻っていますが、白い顔のままだったので家族を驚かせてしまい娼婦をしている事は家族には話さなかったのだそうです。
何故横浜メリーさんは白い顔なのか?
横浜メリーさんと言えば白い顔に白い服装が特徴的ですが、何故顔を白に塗っているのでしょうか?
画像は白い顔ばかり
横浜メリーさんは米軍相手に娼婦をしていたのですがあまり稼いでいなかったようです。
そのため化粧をするにしても、中々化粧品が買えずに困っていました。
そこで横浜メリーさんの行きつけである伊勢佐木町の化粧品店「柳屋」の店員から安い化粧品を紹介してもらいました。それは舞台用のおしろいでした。
横浜メリーさんはずっとそれを愛用していたため、白い顔のイメージがすっかり定着しました。
素顔と本名は出ているか?横浜メリーさんの詳細について
素顔は不明
横浜メリーさんは一時期、横浜の名物的存在だったので雑誌にも何度か掲載されたことがあります。
しかしそれらのメディアにも素顔が載っている事はありませんでした。
白く化粧をした、ヨコハマメリーさんの画像。
そのため横浜メリーさんの素顔は記録に残っておらず、今となっては横浜メリーさんの素顔を確認する方法はありません。
横浜メリーさんは娼婦として活動している時だけでなく人前に出る時は常に白い顔の状態だったと思われます。
横浜メリーさんの本名は緑恵(よりえ)
横浜メリーさんの本名は明かされていませんが過去に横浜メリーさんの本名を調べた人がいました。それによると緑子(りこ)あるいは緑恵(よりえ)の2つが本名の候補として上がりました。
結局横浜メリーさんの母校である青年学校の卒業名簿で調べた結果、緑恵(よりえ)が本名であることが分かりました。
横浜メリーさんの苗字に関しては非公開となっています。過去に雑誌記者が横浜メリーさんの本名を調べるために横浜メリーさんの親族の元を訪れていますが本名は非公開となっています。
意外な素顔が見れる!?横浜メリーさんの都市伝説
横浜メリーさんは実際に横浜で娼婦をしていたおばあさんです。しかしあまりにも存在自体が謎である故に数々の都市伝説が存在します。
都市伝説:横浜にいる理由
横浜メリーさんは、基本的には素性の分らない人でした。横浜の街中では頻繁に見かけるものの、自分から積極的に話掛けるタイプでもなく、行きつけの店の店員さんや、ごく親しい間柄の人としか交流がありませんでした。
横浜メリーさんが横浜に留まっていた理由は恋人であるアメリカの海軍将校が戦争から帰って来るのを待っているためと言われています。
横浜メリーさんが西宮市で出会った米軍人は朝鮮戦争に参加するために横須賀を後にしました。
その後結局その軍人が戻って来ることはありませんでしたが、横浜メリーさんは横浜にいる間ずっと横浜港の波止場で恋人の帰りを待っていたのだそうです。
都市伝説:娼婦の狙い
横浜メリーさんが娼婦として働いていた頃は、誰でも客にするのではなく、ある程度狙いを絞っていました。横浜メリーさんはホテルのロビーで客引きする事が多かったのですが、基本的に米軍の将校クラスの人しか相手にしませんでした。
都市伝説:行きつけの店
横浜メリーさんは行きつけの店に頻繁に顔を出していました。1960年代は伊勢佐木町4丁目にある「根岸家」という飲み屋によく来て米軍相手に客引きしていたのだそうです。「根岸家」は1980年11月に倒産してしまっています。
他には横浜メリーさんにおしろいを紹介した化粧品店「柳屋」も行きつけとなっています。
横浜メリーさんは、「柳屋」には最後に姿を見せなくなる迄、2~3年の間来店していたそうです。
そして、横浜メリーさんが寝泊まりに困っている時には2階に泊めてあげたこともあるそうです。
また横浜メリーさんはとても義理堅い性格なのでこれらの頻繁に利用していた店に対して毎年お盆とお歳暮の時期には贈り物を欠かさず贈っていたそうです。
都市伝説:メリーさんへの批判
奇抜な格好で娼婦を続ける横浜メリーさんの事を良く思わない人もいました。
横浜メリーさんは客引きをしている最中に酔っ払いに蹴られたり、デパートのトイレを利用中に水をかけられたこともあるそうです。
行きつけの喫茶店では「横浜メリーさんと同じ食器を使いたくない」という酷い苦情が出たこともありましたが、横浜メリーさんはそれ以降自前のカップを用意してこれに注いで欲しいとお願いするようになりました。
他には盗難を防ぐために所持品全てを紙袋に入れて持ち歩いていたり、歯は全て入れ歯であるという都市伝説もあります。
映画「ヨコハマメリー」と舞台「横浜ローザ」
横浜メリーさんは「映画」化され、「舞台」でも演じられた!
横浜メリーさんは今でもその存在を語り継がれており、これまでに数多くの作品のテーマとして語り継がれています。その中でも有名なのが映画「ヨコハマメリー」と舞台「横浜ローザ」です。
映画「ヨコハマメリー」について
映画「ヨコハマメリー」のパッケージ画像
2006年に上映された映画「ヨコハマメリー」は横浜の風物詩だった娼婦・横浜メリーさんが突然姿を消したことにより、横浜メリーさんを追いかけながらルーツを探るドキュメンタリー映画となっています。
映画「ヨコハマメリー」は実際に横浜メリーさんと交流のあった人物を取材しながら、横浜での横浜メリーさんの活動内容や横浜から姿を消した後の動向について迫っています。
舞台「横浜ローザ」について
舞台「横浜ローザ」のポスター画像
舞台「横浜ローザ」はドキュメンタリーではなく横浜メリーさんを題材にしたオリジナル作品となっています。
女優の五大路子さんが「横浜ローザ」の舞台で、長年に渡って横浜メリーさんを演じています。
「横浜ローザ」は毎年終戦記念日に、記念講演として上演されています。
この記念講演は、戦後を生きた人達にメッセージを伝えていくという意図が盛り込まれています。
娼婦の値段は?横浜メリーさんはいくら?
横浜で長年娼婦をしていた横浜メリーさんですが、どれくらいの値段で娼婦をしていたのでしょうか?
娼婦の値段は不明
残念ながら横浜メリーさんの娼婦としての値段や客へのサービス内容などは一切公表されていません。
そのため値段も不明です。しかし常に安い化粧品を使用したり、晩年はホームレスになってしまっている事からあまり高い値段ではなかったのではないかと予想できます。
値段は高め?
横浜メリーさんは誰彼構わず相手していたわけではありませんでした。最初の頃は米軍や外国人しか相手にしませんでしたし、晩年になって日本人に客引きする時も身なりが良くてお金を持っていそうな人にしか声を掛けていませんでした。
値段は不明だが生活が苦しかったのは確か
横浜メリーさんは自分で稼いだ金のほとんどを衣装に費やしていたそうです。
しかしどんなに辛い状況でも、貧乏で素性が怪しい人を相手にする事はありませんでした。
それには娼婦なりのプライドや気高さがあったのかもしれません。
老人ホームにて、横浜メリーさんの最期
1995年に体調を崩した横浜メリーさんは地元・岡山に戻り老人ホームでひっそりと余生を過ごしていました。
地元の老人ホームでの余生
老人ホームでの横浜メリーさんは趣味である絵を描きながら生活していたそうです。
ただし岡山の老人ホームは現地で農作業を引退した地元の年寄りが集まる場所です。
そんな中で岡山を離れて横浜で長年に渡り派手な格好で娼婦をしていた横浜メリーさんは一体どのように思われていたのでしょうか。
2005年1月17日:老人ホームにて永眠
そして横浜メリーさんは2005年1月17日に老人ホームにて、心臓発作により遂に亡くなりました。
伝説の娼婦・横浜メリーさんの素顔と生き方:まとめ
横浜メリーさんは一見すると横浜にいる派手な格好をしたおばあさんです。しかしその裏では二度と帰らぬ恋人を待ちながら、娼婦としての生き方を全うした悲哀に満ちた人物像も垣間見えます。
横浜メリーさんは正体を明かさなかったので素顔も見えない女性でしたが、親交のあった人々は口を揃えて良い人だったと言います。それが横浜メリーさんの素顔なのではないでしょうか。
興味がある人は是非映画「ヨコハマメリー」や、舞台「横浜ローザ」などをご覧になってみて下さい。